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大阪(おおさか)市は2001年10月、「豊臣秀吉(とよとみひでよし)が没(ぼっ)した10日後の日付なのに、秀吉の朱印(しゅいん)が入った公文書が見つかった」と発表した。現存(げんそん)する秀吉の文書約1万点のうち、日付が最も遅(おそ)いという。秀吉が死の直前、混乱(こんらん)をさけるために自分の死を隠(かく)すよう家臣に指示(しじ)していたことを裏(うら)づけるもの、と同市ではみている。

文書は縦(たて)28.8センチ、横19.8センチ。京都府内の古美術商(こびじゅつしょう)のリストから発見し、8月に購入(こうにゅう)した大阪市が、朱印などから秀吉による公文書と断定(だんてい)した。日付は秀吉の死から10日後の1598【慶長(けいちょう)3】年8月28日。死の数カ月前に命じた大坂城の増強工事(ぞうきょうこうじ)で働く人の報酬(ほうしゅう)を重臣に指示した内容(ないよう)だ。現存する秀吉の文書はこれまで、死の7日後に朝鮮(ちょうせん)半島(はんとう)に出兵していた大名にあてた見舞状(みまいじょう)がもっとも日付が遅いとされていた。

大阪城天守閣(てんしゅかく)の中村博司館長によると、死期をさとった秀吉は混乱を恐(おそ)れ、朝鮮半島に出兵中の家臣が帰り、城(しろ)の工事が終わるまで、自分の死を隠すように周囲に命じていたとされる。このため、文書は秀吉の生前に書かれて死後に日付を入れて発行されたか、遺志(いし)をくんだ家臣が書いて押印(おういん)した、などと推測(すいそく)されるという。
(参考:朝日新聞、読売新聞、毎日新聞ほか)
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