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滋賀(しが)県、信楽(しがらき)町、黄瀬(きのせ)の、聖武天皇(しょうむ・てんのう)【701~56年】の離宮である紫香楽宮遺跡(しがらきのみや・いせき)近くの鍛冶屋敷遺跡(かじやしき・いせき)から、大規模(だいきぼ)な鋳銅工房(ちゅうどう・こうぼう)【銅をつくる工場】跡が確認(かくにん)された。奈良時代【710~84年】に、聖武天皇が大仏を造るために築(きず)いた甲賀寺(こうがじ)跡に近く、溶解炉(ようかいろ)、たたら【足ぶみ式送風機】、鋳込み場(いこみば)の3つの設備がセットで13基(き)見つかった。聖武天皇が建立(こんりゅう)した甲賀寺に納(おさ)められたと見られる仏像の台座(だいざ)や梵鐘(ぼんしょう)を鋳造(ちゅうぞう)した跡も確認され、国の役所「造甲賀寺所(ぞうこうがじしょ)」の一部と判断(はんだん)された。
「続日本紀(しょくにほんぎ)」によると、聖武天皇は743年10月、紫香楽宮で大仏造立の詔(だいぶつぞうりゅうのみことのり)を出し、すぐに甲賀寺を開き、東大寺に先んじて大仏造立に取りかかっていたが、未完に終わったとされている。今回の発見で、高い鋳造技術(ちゅうぞう・ぎじゅつ)をもった職人(しょくにん)の集団(しゅうだん)が共同作業していたことが裏(うら)づけられた。こうした技術や経験(けいけん)が東大寺の大仏建立に引きつがれたとみられている。聖武天皇の「仏都(ぶっと)」建設(けんせつ)の意思を裏づける発見であるとされる。
この遺跡は、東西約10メートル、南北約50メートル以上にわたって、土製(どせい)の溶解炉とたたらと鋳込み場のセットが西側8基、東側5基、東西2列に並(なら)んでいた。明治以降(いこう)の水田整備(せいび)で破壊されたため確認できなかったが、東側にもう3基あったとみられる。資材(しざい)置き場とみられる建物跡やふいご【送風装置】の跡も確認された。
出土土器から年代は740~60年代と断定(だんてい)された。東海・畿内系(きないけい)の土器が多く発見され、国家事業として全国から職人が集められたものと思われる。

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「続日本紀」によると、大仏は「体骨柱(たいこつちゅう)【骨(ほね)ぐみの柱】」まで作られたが、山火事や地震(じしん)があいつぎ、745【天平17】年に天皇が平城京(へいじょうきょう)にもどって中断(ちゅうだん)されたとされる。その後も寺の建設は続けられた。甲賀寺は、近江国分寺(おおみこくぶんじ)となったという説もある。

中央縦(たて)に、二列並んだ13基の鋳込み場跡
写真:毎日新聞社
(参考:朝日新聞、毎日新聞、読売新聞)
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