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2003.04_15 発行(株)学習研究社

日本の歴史新聞

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 幕末(ばくまつ)の思想家、吉田松陰【1830~1859年】が1854【安政(あんせい)元】年、静岡県(しずおかけん)・下田沖(しもだおき)で、ペリー総督(そうとく)が率(ひき)いる「黒船」艦隊(かんたい)に密航(みっこう)を試み、乗船を求めた手紙の原本を、関西大(大阪府吹田市(おおさかふ・すいたし))の陶徳民教授(とうとくみんきょうじゅ)【東西文化交流史】が米国・エール大学の図書館で見つけた。
 手紙の内容(ないよう)は松蔭の随筆(ずいひつ)「回顧録(かいころく)」に記されているが、原本が発見されたのは初めて。文書は2通あり、どちらも偽名(ぎめい)で書かれている。1通は「投夷書(とういしょ)」とよばれる漢文の手紙で、縦(たて)24センチ、横44.5センチの和紙に毛筆で「外国に行くことは禁(きん)じられているが、わたしたちは世界を見たい」などと訴(うった)えている。もう1通は「別啓(べっけい)」とよばれる仮名(かな)まじりの手紙で、投夷書の要約に当たり、「大将(たいしょう)が承認(しょうにん)下されば船で浜辺(はまべ)にむかえに来てほしい」などと書かれている。
 松蔭は1854年3月27日、下田に2度目の来航をした黒船艦隊の将校に2通の手紙をわたし、その夜から翌未明(よくみめい)に、艦隊(かんたい)のポーハタン号に小舟(こぶね)で乗りつけた。だが手紙を読んで応対(おうたい)したウィリアムズが「現在(げんざい)は乗船させるのはむずかしい」と拒否(きょひ)したため、松蔭は自首し、投獄(とうごく)された。
 今回の投夷書と別啓は、回顧録と照らし合わせた結果、多少の違(ちが)いはあるものの、内容や筆跡(ひっせき)が「松蔭のものに非常(ひじょう)に似(に)ている」と専門家(せんもんか)も言っている。陶教授の話では、「投夷書は清書してあり、協力者の存在(そんざい)も想像(そうぞう)させる。

米国側の記録では、ペリーは厳罰(げんばつ)を受ける松蔭らの人権(じんけん)を守るか、日米の関係悪化を防(ふせ)ぐか悩(なや)んだようだ。当時の日米の記録を突合(つきあ)わせていくことで、幕末の日米交渉(にちべいこうしょう)の実像(じつぞう)が浮(う)かび上がってくる」ということだ。


ペリー(左)と吉田松陰(右)


松下村塾(しょうかそんじゅく)(左)とその内部(右)

(参考:毎日新聞、読売新聞ほか)

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4コマまんが .
はにわ先生 .

このニュースは、ここがポイント

●「回顧録」に記されていた吉田松蔭の手紙の原本が発見された

 吉田松陰が密航を企(くわだ)てたという事実は、よく知られている。この時、黒船艦隊に渡した2通の手紙の原本が、アメリカ合衆国(がっしゅうこく)エール大学図書室にあることが発見された。2通の手紙は、「投夷書」と「別啓」とよばれるもので、「日本国江戸府書生(にっぽんこくえどふしょせい)瓜中萬二(かのうちまんじ)(松蔭の偽名)と市木公太(いちきこうた)(同行した金子重輔(かねこじゅうすけ)の偽名)」の名前で書かれている。その内容については、松蔭の執筆(しっぴつ)した「回顧禄」(注)にも掲載(けいさい)されており、今回見つかった原本と対比(たいひ)すると、投夷書の方は、一部の当て字をのぞいて内容が一致(いっち)していることがわかった。また、別啓の方は、文体が違うものの、毛筆の筆跡が専門家の鑑定(かんてい)で、松蔭のものに非常に似ているということが判明(はんめい)した。
 この度の発見は、ペリー来航150年の記念すべき年に当たり、幕末の日米交渉の過程(かてい)における、わが国とアメリカ合衆国の動きを明らかにする上で何かと考えさせられる意味のある資料(しりょう)の発見ということができる。

ニュースに関連する重要な用語

日米和親条約(にちべいわしんじょうやく) 松下村塾 安政の大獄(たいごく) 長州藩(ちょうしゅうはん) 阿部正弘(あべまさひろ) 井伊直弼(いいなおすけ)

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開国年表
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平城京 .
ペリー年表
監修:帝京大学教授 高野尚好

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