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幕末(ばくまつ)の思想家、吉田松陰【1830~1859年】が1854【安政(あんせい)元】年、静岡県(しずおかけん)・下田沖(しもだおき)で、ペリー総督(そうとく)が率(ひき)いる「黒船」艦隊(かんたい)に密航(みっこう)を試み、乗船を求めた手紙の原本を、関西大(大阪府吹田市(おおさかふ・すいたし))の陶徳民教授(とうとくみんきょうじゅ)【東西文化交流史】が米国・エール大学の図書館で見つけた。
手紙の内容(ないよう)は松蔭の随筆(ずいひつ)「回顧録(かいころく)」に記されているが、原本が発見されたのは初めて。文書は2通あり、どちらも偽名(ぎめい)で書かれている。1通は「投夷書(とういしょ)」とよばれる漢文の手紙で、縦(たて)24センチ、横44.5センチの和紙に毛筆で「外国に行くことは禁(きん)じられているが、わたしたちは世界を見たい」などと訴(うった)えている。もう1通は「別啓(べっけい)」とよばれる仮名(かな)まじりの手紙で、投夷書の要約に当たり、「大将(たいしょう)が承認(しょうにん)下されば船で浜辺(はまべ)にむかえに来てほしい」などと書かれている。
松蔭は1854年3月27日、下田に2度目の来航をした黒船艦隊の将校に2通の手紙をわたし、その夜から翌未明(よくみめい)に、艦隊(かんたい)のポーハタン号に小舟(こぶね)で乗りつけた。だが手紙を読んで応対(おうたい)したウィリアムズが「現在(げんざい)は乗船させるのはむずかしい」と拒否(きょひ)したため、松蔭は自首し、投獄(とうごく)された。
今回の投夷書と別啓は、回顧録と照らし合わせた結果、多少の違(ちが)いはあるものの、内容や筆跡(ひっせき)が「松蔭のものに非常(ひじょう)に似(に)ている」と専門家(せんもんか)も言っている。陶教授の話では、「投夷書は清書してあり、協力者の存在(そんざい)も想像(そうぞう)させる。

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米国側の記録では、ペリーは厳罰(げんばつ)を受ける松蔭らの人権(じんけん)を守るか、日米の関係悪化を防(ふせ)ぐか悩(なや)んだようだ。当時の日米の記録を突合(つきあ)わせていくことで、幕末の日米交渉(にちべいこうしょう)の実像(じつぞう)が浮(う)かび上がってくる」ということだ。

ペリー(左)と吉田松陰(右)

松下村塾(しょうかそんじゅく)(左)とその内部(右)
(参考:毎日新聞、読売新聞ほか)
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