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飛鳥(あすか)時代の大豪族(だいごうぞく)蘇我馬子 【?~626年】の墓(はか)と伝えられている奈良県明日香(あすか)村の石舞台古墳(いしぶたい・こふん)に近い島庄遺跡(しまのしょう・いせき)で、2004年3月、大型の建物跡(あと)が見つかった。
建物跡は7世紀前期、中期、後期の3つの時代のもの。このうちの前期の建物跡は、幅(はば)7.2メートル、長さ13メートル以上、柱の直径が約40センチもあり、当時の平均的(へいきんてき)な宮殿(きゅうでん)よりやや大きい。その大きさから推測(すいそく)すると強大な権力(けんりょく)をもつ者の建物であることはまちがいない。そこで、これがちょうどその時代に、天皇(てんのう)をしのぐ権力をふるっていた蘇我馬子の邸宅跡ではないかと大きな話題をよんでいる。
では、なぜこの建物跡が馬子の邸宅跡と考えられるのか? その理由は『日本書紀(にほんしょき)』の記述(きじゅつ)がもとになっている。『日本書紀』に「(馬子は)飛鳥川のかたわらに家を建て、庭の中に池を開き、池の中に小島を造ったので、人々は島の大臣(おおおみ)と呼んだ。」とある。これをもとに、島庄遺跡はその地名に「島」がつくことや、飛鳥川ぞいに位置することで、昔から馬子ゆかりの遺跡と考えられてきた。そして、1972年には、一辺が42メートルもある7世紀前半の大きな方形の池が見つかり、これが『日本書紀』の記述にある馬子の庭の池ではないかとされてきた。

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さらに今回見つかった7世紀前期の建物跡は、その池から約40メートルしか離れておらず、おそらく同じ敷地(しきち)内にあったものと考えることができる。そこで、今回発見された建物跡が馬子の邸宅跡である可能性(かのうせい)が高まったというわけだ。
もし、これが本当に馬子の邸宅跡だとすると、1400年近くもの時をこえて、わたしたちの目の前に姿(すがた)をあらわしたことになり、まさしく世紀の大発見と言えよう。
(参考:毎日新聞、読売新聞ほか)
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