ヒーロー・ヒロイン インタビュー スポーツを楽しもう!

1980年神奈川生まれ

日本人初のNBAプレーヤー
能代工業高校では、3年連続で高校総体、国体、全国高校選抜の3大タイトルを制し、史上初の「9冠」を成しとげる

第5回田臥勇太選手

今回は、日本人で初めてアメリカのプロバスケットボールリーグ、NBAのプレーヤーになった、田臥勇太(たぶせゆうた)選手が登場するよ。

早速、田臥選手の魅力(みりょく)にせまってみよう!


とにかくバスケットボールが大好きだった小学生時代

バスケットボールを始めたきっかけは?


3つ上に姉がいまして、その姉がミニバスケットボールのチームに入っていたので、いっしょについていって、自然とやり始めました。

とくに親から、「やれ」と言われたわけでもなく、自分から好きになっていました。
小学校2年生のときです。

当時は、同じ学年でバスケットをやり始めた友だちはいませんでした。

ぼくの通っていた小学校の先生も、バスケットボールにすごく情熱(じょうねつ)を持った方だったので、上達(じょうたつ)できるチャンスがたくさんありました。

どんな小学生でしたか?


外で遊ぶのが好きな、よく食べ、よく遊びという子どもでした。

バスケットボール以外では、ソフトボールや水泳をやっていました。バスケを始めてからは、それがメインになりました。

ソフトボールは、毎週土曜に町内でやっていたので、それに参加(さんか)していました。

勉強はどうでしたか?


うーん、ふつうだったんじゃないでしょうか。できる子ではありませんでしたけど。

とくに理数系(りすうけい)が苦手(にがて)でしたね。どっちかっていうと、国語などの方がまだいいというか・・・でも、どちらかと言うと、ですよ(笑)あとは、図工など、絵をかくのも苦手でしたね。

体育は好きでした。ただ、体がかたかったので、器械体操(きかいたいそう)は苦手でした。

球技(きゅうぎ)は好きだったんですけど、器械体操(きかいたいそう)はホントにダメでしたね(笑)

バスケットボールに本格的(ほんかくてき)にのめりこんだのはいつごろですか?


もう、始めたときからですね。小学校2年生のころから、ただバスケが好きだった記憶(きおく)があります。高学年のころには、本格的(ほんかくてき)にバスケットボールの選手(せんしゅ)になりたいなあと、あこがれもふくめて、漠然(ばくぜん)と思っていました。

学校のチームが強かったということもあり、ぼくが3年、4年、6年生のときに、神奈川県大会で1位をとって、全国大会に出ることができました。情熱(じょうねつ)を持った先生や、すごく上手な先輩(せんぱい)もそろっていて、環境(かんきょう)的にもすごくめぐまれていました。

中学校では?


中学になってからも、2年、3年のときは県大会で1位でした。3年生のときには全国で3位にもなりました。小学校のときからいっしょにやっていた先輩(せんぱい)たちとプレーすることができたので、とにかく仲間にめぐまれたのが、最大のラッキーな出来事でした。

そのころは、とにかく一つひとつ目の前のことをクリアすることしか、考えていませんでした。横浜(よこはま)市の大会の次は神奈川県大会。その次に全国というように。

そして、全国3位にまで勝ち進んだ中学校3年生のとき、秋田にある能代(のしろ)工業高校の監督(かんとく)からお話をいただけました。

全国の強い高校をさがして

どうして、秋田の高校に行こうと思ったのですか?


はじめは、地元の強いチームに行こうと思っていました。でも、視野(しや)を広げてみると、全国にはもっと強いチームがたくさんあって、それなら関東で、いや全国でと思いをはせていました。そんなときに、当時、バスケットボールの名門である能代(のしろ)工業高校の監督(かんとく)から、「練習に来ないか」とさそわれ、行ってみることにしました。

そこでは、ぼく以外にも、監督(かんとく)が目をつけていた選手が何人かよばれていました。

ぼくは、練習に参加したときから、すでに「行きたい!」という気持ちが固まっていたので、家にもどると、すぐさま両親に「行く」と伝えていました。

強豪校(きょうごうこう)に入り、1年生からレギュラーの座(ざ)を取ったのですね。


監督(かんとく)からチャンスをいただけたので、そのチャンスをものにすることに必死でした。

要求(ようきゅう)されたことに何とかこたえよう、チームに迷惑(めいわく)をかけないようにしよう、先輩(せんぱい)たちに何とか食らいついていこうと、そんな気持ちでいっぱいでした。

親元をはなれ、寮(りょう)で生活することも初めての経験(けいけん)だったし、とにかく1年生のときは、いろいろなことに早くなれなきゃという気持ちでいっぱいでした。

寮(りょう)生活はどうでしたか?


ぼく以外にも他県からきている仲間がいたので、だいたい1学年6人ぐらいずつの下宿(げしゅく)生活だったんですね。だから、毎日修学旅行(しゅうがくりょこう)みたいな感じでした(笑)

練習時間は?


午後3時半から6時半ぐらいでしたね。高校のときも、「すごくきびしいんでしょ?」なんてまわりの人たちからよく言われたのですが、そんなこともなかったんですよね。短時間集中というのを目指していました。

練習が終わってからは、ごはんを食べて、みんなで部屋に集まってテレビを見てと、まさに修学旅行(しゅうがくりょこう)状態(じょうたい)でした。たいくつということはなかったですね。

部屋も一人部屋だったので、プライバシーも守られていましたし、けっこう快適(かいてき)でした。

史上初の9冠(かん)というタイトルを手に、いざ次のステージへ

かがやかしい成績(せいせき)を残した後、どういう進路を考えていたのですか?


はじめは、日本の強い大学に行きたいなあと思っていました。でも、3年生になって、いろいろな人にアドバイスをもらえる機会があり、その中でアメリカという選択肢(せんたくし)も出てきました。自分からというよりは、まわりの人たちから行ってみたらどうかとアドバイスをもらったという感じでした。

高校で現役(げんえき)生活を送っている間は、日本一になることしか考えていなかったので、アメリカという選択肢(せんたくし)は、まったくありませんでした。

3年生の夏になって、まじめに次の進路を考えたとき、ただ大学に行くということが、自分の中ですごく疑問(ぎもん)に思えてきました。それなら、知らない世界に飛びこんでみようかと、自分の気持ちが少しずつ変わっていきました。


バスケづけから英語づけの日々へ

それで、ハワイの大学に進学することに?


はい。ハワイの大学は、語学とバスケの両立ができるということを知って、決めました。それに、アメリカの大学は途中(とちゅう)で他の大学に転校もできるので、とりあえずそこでやってみて、その後のことはそれから考えてみようと。

言葉もまったく分からなかったので、まずは英語をやらなきゃダメだとあせっていました。

通っていたハワイの大学は、バスケットボールの実力はどうだったのですか?


アメリカの大学は、ディビジョン1、ディビジョン2、ディビジョン3という3つのグループに分けられていて、ぼくの通っていた大学はディビジョン2でした。

ディビジョン1というのは、NBA選手の卵(たまご)が集まるような、すごいところでした。

ディビジョン1に行こうとは思わなかったのですか?


そこまでの語学力もないし、かんたんに行けるようなところではありません。アメリカの大学は、向こうから来てほしいと言ってくれないと行くことができないので。

ハワイでの生活を教えてください


観光で行ったわけではないので、すぐに学校の手続きをしないといけないし、銀行の口座(こうざ)も開かなければいけないしと、いろいろなことがあり、とにかく大変でした。

何も分からないし、すべて自分でやらなければいけないので、本当にまわりの日本人の方々には助けてもらいました。車もないと生活ができないので、向こうで運転免許(うんてんめんきょ)も取得しました。

文武(ぶんぶ)両道の日々


ハワイでは、勉強の日々でした。ぼくはそれまで勉強するために図書館へ行ったことがなかったのですが、毎晩(まいばん)宿題をやるために図書館に通いっぱなしでした。幸い、英語には興味(きょうみ)があったので、良かったんですけど。

クラスは、スピーキングやリスニングなど、基本的(きほんてき)なクラスに通っていました。まわりの生徒は、アジア人ばかりでした。

ぼくの通っていた大学は、勉強とスポーツの両立についてハッキリしていて、バスケットボールばかりやっていればいいのではなく、ちゃんと授業(じゅぎょう)を受けて単位を取得しないと、バスケをやらせてもらえませんでした。

チームメイトたちも、勉強道具がつまったリュックサックを背負(せお)いながら学校に行って、一生けん命勉強していました。

すぐにレギュラーになれたのですか?


いえ、1年目はレッドシャツといって、授業(じゅぎょう)の単位が規定(きてい)の数まで足りていないので、試合に出られませんでした。その間にちゃんと単位が取れるよう授業(じゅぎょう)に出ていました。

しかし、2年生になり、ようやく試合に出られると思ったら、椎間板(ついかんばん)ヘルニアがみつかり、1年間を棒(ぼう)にふることになってしまいました。

とてもくやしかったのですが、それ以上にとにかくいたくて何もできなくて、本当につらかったことを覚えています。

3年目のシーズンは一年間試合に出ることができました。ぼくを取ってくれたコーチたちも、ようやく使えると安心していました。せっかく日本からよびよせたのに、このままじゃ意味がないですからね。全試合、スタメンで使ってくれて、アシスト王にもなったり、そのディビジョンでは活躍(かつやく)することができました。

自分の能力(のうりょく)は通用しましたか?


ディビジョン2では通用しましたね。でも、アメリカにいる中で、ディビジョン1のすごい選手たちの活躍(かつやく)を目の当たりにして、バスケット選手としておくれをとっていると痛感(つうかん)していました。もっとバスケットに打ちこまないと追いつけないと思ったんですね。

それで、ぼくは一度この場所を出ようと決めました。

NBAプレーヤーという夢(ゆめ)に向かって

それで、日本にもどったんですね?


はい。1シーズン日本のJBLでプレーしました。日本でプレーしている間は、自分を成長させよう、磨(みが)こうということに必死でした。

あっという間にシーズンが終わり、一息ついたとき、ふいに一人でアメリカに行こうと思いました。それは、練習をしに行くわけでもなく、ただNBAの試合を生で観戦したくて、いてもたってもいられなくなったのです。

まい上がったNBAという空間


知り合いの方にお願いして、デンバーやシカゴなど、3、4か所まわることができたのですが、たまたまぼくの大学のコーチだった人が、デンバーナゲッツというNBAチームのスタッフになっていました。

ぼくは、ただ試合を見に行ったつもりだったのに、ロッカールームに入れてくれたり、練習もさせてくれたりして、もうそれで完全にまい上がってしまい、ただただ感動して、思わずほろっとなってしまいました。そして、すぐさま、そのコーチにもアメリカでプレーしたいと相談しました。

アメリカにいる時点で、親にも電話をして、来年アメリカに行くからと伝えていました。

それで、デンバーにわたったのですか?


何のあてもありませんでした。だけど、ラッキーなことに、たまたま高校生のときにナイキのイベントでお会いしたNBAのコーチが、ぼくのことを覚えていてくれて、だったら、ダラス・マーベリックスというチームのサマーリーグのトライアルを受けに来ていいよとつなげてくれたんです。

何も分からないまま、とにかくあたえられたチャンスをものにしようというだけだったので、明日のことなんて、まったく分かりませんでした。

日本人初のNBAプレーヤー誕生(たんじょう)

NBAのチームと契約(けいやく)をしたときは、やった! という気持ちだったのですか?


いや、まったく安心できませんでした。いきなり次の日いらないと言われる可能性(かのうせい)もありますし。他に契約(けいやく)したい選手は山ほどいるわけですから。

当時、マスコミでさわがれたときも、お願いだからさわがないでくれって思っていました。イチロー選手みたいなあつかいだったら全然ちがいますけど、ぼくの場合は下の下だったので。

実力でうばい取ってやるという、必死という言葉しかありませんでした。

それでも、NBAはどうでしたか?


もう、毎日楽しいし、かっこいいし、ワクワクするし、次元(じげん)がちがいましたね。自分の実力が通じるときもありましたし、通じないときもあって、そういうアップダウンがはげしかったです。通じたときは「オレやれるな」とすごく自信につながるし、うれしかったんですけど、こてんぱんにされたときは、「ああ、やばいな。オレ、明日ムリかもしれない」と、日々そんな状態(じょうたい)をくり返していました。

精神的(せいしんてき)には、相当強くなったんじゃないですか?


そうですね。そんじょそこらのことでは、動じなくなりました。

そして、ふたたびアメリカから日本へ


高校のときの監督(かんとく)がJBLに所属(しょぞく)するチームの監督(かんとく)になっていて、その方が声をかけてくれました。もどってこいよというよりも、当然のことなんですけど、ほしい選手だから声をかけるという感じで。そういうアクションを起こしてくれたので、もどる決心をしました。ぼくも3年間のマイナーリーグで少し方向性(ほうこうせい)を変えたいというタイミングだったので。

一問一答 田臥選手の素顔(すがお)にせまってみたよ!

Q.バスケットボールの魅力(みりょく)って、なんですか?


バスケットボールはチームスポーツなので、仲間と協力しあって何かを成しとげることができたときには、みんなと分かち合えるという点が魅力(みりょく)だと思います。あと、ぼくは体が小さいので、大きい選手を相手にしたときに、得点を取ったり、フェイントでかわしたりすることの楽しさというのは、個人的(こじんてき)にありますね。

Q.競技(きょうぎ)を通して学んだことはなんですか?


いっぱいありますが、まあ、ホントに一人ではできないスポーツなので、まわりへのありがたさとか感謝(かんしゃ)の気持ちというのはすごく学びます。応援(おうえん)してくださる方がたくさんいるからこそ、ぼくたちがいられるということはすごく感じますよね。

Q.楽しかったこと、つらかったことは?


今まで話したのと同じことになってしまいますけど、やっぱりみんなでいることが楽しいし、また、勝ち負けの結果が出るスポーツなので、試合に負けたときはくやしいですね。

Q.アメリカでの食生活はどうでしたか?


学生のときは、日本人の友だちといっしょにごはんを作ったりしていました。

ハワイなので、ちょっと行けば日本のスーパーもありましたし、ロスに住んでいたときもそんなに不自由することはありませんでした。

Q.今後の目標を教えてください


やっぱり、NBAでもう一度プレーをしたいので、チャンスを自分でつくって、ものにできるようにしたいですね。チャンスをつくれるかつくれないかは、ホントに自分自身だと思っています。いいプレーをすれば、それがチームの勝敗にも関わってくると思うので、そこも意識(いしき)していますね。

Q.みんなの応援(おうえん)は力になりますか?


なりますね。日本に帰ってきて、一番強く感じたのが、応援(おうえん)してくれる人たちの声援(せいえん)なんですね。期待にこたえ続けたいという、いい意味での責任感(せきにんかん)が生まれました。

Q.結果が悪かったとき、どうやって気持ちを立て直しますか?


まわりに話したり、コーチやチームメイトに話したりして、あとはプラスに考える。

失敗したからこそ、また次がある。この失敗があったからこそ、次はうまくいくと考えるようにしていますね。これ以上は悪くならないだろうと。なかなかむずかしいこともあるのですが、ポジティブでいることが、次につながると考えています。

Q.尊敬(そんけい)する人はいますか?


両親ですね。小さいときから、悪いことは悪い、いいことはいいと、ちゃんとしかったり、ほめたりしてくれたので。

そういうところで、しっかり教育してくれていたんだなぁと、年を取るたびに、ありがたみを感じます。

Q.大切にしている言葉はありますか?


「Be positive.」ポジティブでいないといけないんだなというのは、最近思いますね。とくに今はケガをしているので、余計(よけい)に感じています。


★単身アメリカに乗りこみ、日本人で初めてのNBAプレーヤーとなった田臥選手。
いろいろな苦難(くなん)を乗りこえ、つねに前向きに挑戦(ちょうせん)し続けるすがたは、まさにサムライのよう!
今後の活躍(かつやく)に期待して、みんなもいっぱい田臥選手を応援(おうえん)しよう!
田臥選手、ありがとうございました!

リンク栃木ブレックス
↑田臥選手の所属(しょぞく)チームです

このページのTopにもどるスポーツを楽しもう!のTopにもどる