細川勝元派(東軍)と山名持豊派(西軍)とが,1467(応仁1)年から11年間,京都を中心につづけた戦乱。
将軍家や管領家の跡つぎ争い
室町幕府第8代将軍足利義政には実子がなく,弟の義視を跡つぎにきめたが,その翌年,妻の日野富子が義尚をうみ,これを将軍に立てようとしたため,両者の跡つぎ争いがおこった。また,三管領のうち,斯波氏では義敏・義廉の間で,畠山氏は政長・義就の間で相続争いがおこった。
乱の原因と経過
すでに将軍の力は弱まり,各地の守護大名が力を強めていたが,とくに細川勝元と山名持豊(宗全)の勢力が強まり,たがいに勢力をあらそっていた。将軍や管領の跡つぎ争いがそれぞれの家の中でおこると,それぞれが細川勝元と山名持豊についた。このため,2派の争いは全国的なものとなり,畠山政長と義就の衝突から京都を戦場にして乱が始まった。東軍(細川勝元・足利義視ら)は24か国の兵約16万を,西軍(山名持豊・足利義尚ら)は20か国の兵約9万を動員してたたかったが戦いは長びき,勝元・持豊の死後も戦乱はやまず,地方まで広がった。
乱の影響
この乱により京都はあれ,室町幕府の力はおとろえ,以後,約100年間におよぶ戦国時代へとうつっていった。公家や僧らは乱をさけて地方にのがれたため,かれらによって,京都の文化が地方に広まっていった。
コーチ
西陣織で有名な京都西陣の名は,応仁の乱に西軍山名持豊の本陣がおかれたことからきている。
年代暗記
応仁の乱がおこる…人の世むな(1467)しい応仁の乱