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きようらけいご【清浦奎吾】

(1850〜1942)明治(めいじ・大正時代の官僚(かんりょう政治(せいじ家。第23代内閣総理大臣(ないかくそうりだいじん肥後藩(ひごはん熊本(くまもと県)の寺に生まれる。1876(明治(めいじ9)年,当時の司法省(しほうしょうに入る。(かく法律(ほうりつ条例(じょうれい制定(せいてい(かかわり,その後は内務省官僚(ないむしょうかんりょう(つとめ,貴族院議員(きぞくいんぎいんとなる。1896(明治(めいじ29)年,第2次松方正義(まつかたまさよし内閣(ないかく司法大臣(しほうだいじん,その後,いくつかの内閣(ないかく司法大臣(しほうだいじん農商務大臣(のうしょうむだいじん(つとめる。1914(大正3)年,山本権兵衛(やまもとごんべえ内閣(ないかくがシーメンス事件(じけんでたおれ,首班(しゅはん指名を受けるが海軍(かいぐん協力(きょうりょく(られず組閣(そかく失敗(しっぱいした。1922年,枢密院(すうみついん議長(ぎちょう就任(しゅうにん。23年,第2次山本内閣(ないかく虎ノ門事件(とらのもんじけん総辞職(そうじしょくしたため,24年1月,かつがれるかたちで73(さい総理大臣(そうりだいじん就任(しゅうにん。しかし貴族院議員(きぞくいんぎいんを主体とした組閣(そかく政党側(せいとうがわの反発を受け,5か月間で総辞職(そうじしょく。短命の内閣(ないかくだったが,普通選挙法(ふつうせんきょほうへの道すじをつけたこと,皇太子(こうたいし(昭和天皇(てんのう)の結婚式(けっこんしき挙行(きょこうしたことで清浦(きようら満足(まんぞくしていたという。辞職(じしょく後は政界(せいかい引退(いんたいした。

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