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じょうやくかいせい【条約改正】

江戸幕府(えどばくふ幕末(ばくまつ(しょ外国とむすんだ通商条約(じょうやく不平等(ふびょうどう内容(ないようを,明治政府(めいじせいふ改正(かいせいしようとした外交交渉(こうしょうのこと。

不平等条約(ふびょうどうじょうやく

日米修好(しゅうこう通商条約(じょうやくをはじめ,1858年にアメリカ合衆国(がっしゅうこく・イギリス・オランダ・ロシア・フランスとむすんだ通商条約(じょうやくは,日本に関税自主権(かんぜいじしゅけんがなく,また外国人の治外法権(ちがいほうけん領事裁判権(りょうじさいばんけん)をみとめた不平等(ふびょうどう内容(ないようをもった条約(じょうやくだった。日本が自由に関税(かんぜいをかけられないために,ひくい関税(かんぜいによる安い外国商品が流入して国内産業(さんぎょう圧迫(あっぱくし,また,治外法権(ちがいほうけん領事裁判権(りょうじさいばんけん)のために,外国人の犯罪(はんざいを日本の法律(ほうりつでとりしまれなかった。

コーチ

1886年にノルマントン号事件(じけんがおきたときも,日本(がわでは裁判(さいばんができず,条約改正(じょうやくかいせい明治政府(めいじせいふの大きな課題(かだいだった。

改正(かいせいへの歩み〕

政府(せいふは,1871(明治(めいじ4)年に岩倉具視(いわくらともみらを欧米(おうべいにつかわしたのをはじめ,1878年の寺島宗則(てらしまむねのり交渉(こうしょう,1882年以来(いらい井上馨(いのうえかおる交渉(こうしょうなど,交渉(こうしょうはなかなか進まなかった。この間,政府(せいふ交渉(こうしょう有利(ゆうりにしようとするあまり,極端(きょくたん欧化政策(おうかせいさくをとり,鹿鳴館(ろくめいかん舞踏(ぶとう会を開いて国民(こくみんからはげしい非難(ひなんもおこった。改正(かいせいには,イギリスの反対が(もっとも強かったが,1891年にロシアがシベリア鉄道の建設(けんせつをはじめ,東アジアに南進してくると,イギリスはロシアをおさえるため日本と手をむすぼうと考えるようになった。また,国内で内閣制度(ないかくせいど成立(せいりつ憲法発布(けんぽうはっぷ議会(ぎかい開設(かいせつなど,立憲政治(りっけんせいじの形がととのい,国力が充実(じゅうじつしてくると,条約改正交渉(じょうやくかいせいこうしょう好機(こうきがおとずれた。こうした情勢(じょうせいの中で,1894(明治(めいじ27)年,日清戦争(にっしんせんそうのはじまる直前,外務大臣(がいむだいじん陸奥宗光(むつむねみつは,イギリスとの間に日英(にちえい通商航海条約(こうかいじょうやくをむすんで治外法権(ちがいほうけん廃止(はいし成功(せいこうした。つづいて各国(かっこくとの条約(じょうやく改正(かいせいされた。しかし,このときは関税自主権(かんぜいじしゅけんはまだ回復(かいふくできなかった。

コーチ

関税自主権(かんぜいじしゅけん回復(かいふくし,欧米諸国(おうべいしょこく完全(かんぜんに対等の立場にたつのは,開国から(やく60年後の1911(明治(めいじ44)年のことであった。

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