(1560〜1619)安土桃山時代・江戸時代初期の武将,上杉景勝の家老。上杉景勝の譜代の臣である上田衆の樋口兼豊の子,幼名与六。のちに越後与板(新潟県長岡市)城主直江家を継ぐ。若年から上杉景勝の近習として仕え,景勝の上杉家相続の争いや織田信長軍との戦いなど,つねに行動をともにし,重臣として最大の信頼を得る。景勝が豊臣秀吉に従ったのち,ともに京都に上ったが,秀吉にたいへん気に入られ,1598年上杉家が会津(福島県)120万石に封じられると陪臣(大名の家臣)ながら米沢(山形県)6万石の城主となり,配下に825騎(18万6000石)を従えるという破格の待遇を受けた。1600年関ヶ原の戦いが起こり,景勝が石田三成と結び会津で兵を挙げると,指揮官として武勇・知力を尽くし奮戦,兼続の頭には関東まで攻め下り江戸を陥れる計画まであったともいわれる。徳川家康に降伏した景勝が米沢に減封・転封されるとそれに従い,上杉家家老として草創期の藩の内政に尽力した。学問にも秀で,書籍の収集・出版,文化的な政策での功績も大きい。◇関ヶ原の戦いの前に兼続が徳川家康に送った書状(「直江状」)は,実力者家康に面と向かって非を指摘し,批判を浴びせた内容で,家康を激怒させたとも,あきれさせたともいわれる。