(966〜1027)平安時代中期の政治家。藤原兼家の5男。一族のうちの対抗者をしりぞけて,右大臣・氏長者となり(995年),左大臣をへて,1016年に摂政(天皇の代理者)に昇進。翌年,これを子の頼通にゆずり,太政大臣となって表向きは引退したが,死ぬまで政治の実権をにぎっていた。この間,3人のむすめをそれぞれ皇后とし,それらの生んだ皇子が即位(後朱雀天皇など),藤原氏の黄金時代をもたらした。3人めのむすめ威子が後一条天皇の皇后にきまったとき,「この世をばわが世とぞ思ふもち月の かけたることもなしと思へば」とよんで,その全盛をほこったことは有名。◇晩年は法成寺をたて,ここに住んだので「御堂関白」ともよばれるが,関白にはなっていない。
コーチ
子の
頼通の時代と合わせて,
摂関政治の
全盛期をきずいた人物である。