長崎、原爆の日、平和祈念式典で被爆者代表が「平和への誓い」を読み上げました
8月9日(日曜日)、長崎は被爆から81年の原爆の日を迎えました。長崎県長崎市の平和公園で平和祈念式典がありました。被爆者(原爆の被害をうけた人)の代表で、87歳の本村チヨ子さんが「平和への誓い」を読み上げました。
「平和への誓い」全文
被爆81年という歴史の転換期を迎え、わたしたち被爆者がひとりもいなくなる時代がそこまで近づいてきました。
1945年8月9日午前11時2分、わたしがあの巨大な光と爆風を経験したのは、国民学校に入学したばかりの一年生、まだ、小さな幼い6歳の時でした。当時、わたしは爆心地から約4.5キロ離れた福田村小江郷に住んでいました。
あの日、母と祖父、叔母の3人は田んぼに出かけており、家の土間では祖母がお昼の支度をしていました。わたしはひとり、縁側で遊んでいた時、目の前に大きく異様な火の玉がさくれつしました。その瞬間、家屋が倒壊し、硝子障子が倒れ、大音響とともにわたしの小さな体は庭先にたたきつけられました。うずくまるわたしを見て祖母がとっさに駆け寄り、わたしの上に覆いかぶさりました。何が起こったのか分からないまま祖母に横抱きにされて、防空壕に逃れました。異様な火の玉とごう音、爆風、そしてその後の静けさが子ども心に強く焼きついています。しばらくして母たちが帰宅し、長崎に原子爆弾が落とされたことを知りました。その後、海辺の小さな集落では毎日のように遺体を焼く火と形ばかりの葬儀が絶えませんでした。とっさにわたしをかばい、背中に大きな傷を負った祖母は、十分な手当ても受けられず、一度も仰向けに休むことができないまま、翌年の3月に帰らぬ人となりました。これが6歳のわたしの遠い、しかし鮮明な記憶です。
あの日から81年、被爆当時は焦土と化し、動くものは何ひとつなかったここ浦上の丘一帯も見事な復興をとげました。一見平和な光景ですが、一方世界はどうでしょうか。
新聞やテレビでは、毎日のように争いのニュースが絶えません。ロシアとウクライナの戦争は、いまだに終息が見えません。
こうした国々の指導者の方々には、毎日の暮らしにあえぐ人々の姿が目に入らないのでしょうか。おさない子が泣きながら裸足でさまようすがたが見えないのでしょうか。そして祖母の命と引きかえに81年間、十字架を背負って生きてきたわたしの記憶はただの昔話なのでしょうか。
2025年の12月、私は14日間、車椅子に頼りながらアメリカをおとずれ、ロスアラモス国立研究所などを見学しました。案内してくれたかたと対話を重ねるうちに「ここで働く者の誰一人として平和を願わない人はいない」と力強く語ってくださいました。わたしは「どうか核を兵器として使わないでください」と伝えるのが精一杯でしたが、人と人が分かり合うためには対話しかないことをあらためて実感しました。また、わたしはパールハーバーもおとずれました。おだやかな海を見つめながら、なぜ戦争が始まり、多くの命が奪われなければならなかったのかを思い続けました。
わたしは平和とは命を守ること、命とは何よりも優先されるべきものだと思います。
わたしは残された時間を、命の限り平和を叫びつづけること、そして戦争が再び起こらないよう、祈り続けることを、一瞬にして原爆の犠牲となられた、この丘に眠る多くの御霊に誓います。
令和8年8月9日 被爆者代表 本村チヨ子
これはアルファサード編集部独自記事です。










