(1698〜1769)江戸時代の蘭学者・儒学者。通称を文蔵といい,昆陽は号。江戸日本橋の魚屋の生まれ。京都の伊藤東涯に儒学を学び,27歳のときに江戸で塾を開き,やがて町奉行大岡忠相にみとめられた。1735年には『蕃薯考』を書いて,将軍徳川吉宗にききん対策用にサツマイモの栽培を進言し,その功績によって「甘藷(サツマイモ)先生」とよばれた。のち幕府の書物奉行に出世。
コーチ
のち,
吉宗に命じられてオランダ語を学んだが,その
知識は門人の
前野良沢につたえられ,
蘭学がさかんになる
一因となった。