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あこうぎし【赤穂義士】

江戸(えど時代の中期,主君のあだうちをした旧赤穂藩士(きゅうあこうはんし赤穂四十七士(あこうしじゅうしちしともいう。1701年,赤穂(あこう兵庫(ひょうご県)藩主浅野長矩(はんしゅあさのながのり江戸城(えどじょう内で吉良義央(きらよしなかに切りかかったため,幕府(ばくふ長矩(ながのり即日切腹(そくじつせっぷくを命じ,赤穂藩(あこうはんをとりつぶした。大石良雄(おおいしよしお旧藩士(きゅうはんし47人はこの処置(しょち憤慨(ふんがいし,1702(元禄(げんろく15)年12月14日の夜半に吉良邸(きらてい(ち入り,義央(よしなかをころし,主君のうらみを晴らした。かれらの行動は美談とされ,助命(ろんもあったが,集団(しゅうだん行動は違法(いほうとする荻生徂徠(おぎゅうそらいの意見によって,46人が切腹(せっぷくとなった。◇この事件(じけん取材(しゅざいした小説(しょうせつ脚本(きゃくほんなどは多く,『忠臣蔵(ちゅうしんぐら』として親しまれた。

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