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いしばしたんざん【石橋湛山】

(1884〜1973)大正・昭和時代のジャーナリスト,政治(せいじ家,第55代内閣総理大臣(ないかくそうりだいじん東京(とうきょう生まれ。父は身延(みのぶ久遠寺(くおんじの元管長(かんちょう。1907(明治(めいじ40)年,早稲田(わせだ大学を卒業(そつぎょう後,東京毎日(とうきょうまいにち新聞記者を(て,東洋経済新報(とうようけいざいしんぽう社に入社。主幹(しゅかんのちに39(昭和13)年に社長。一貫(いっかんして民主(みんしゅ・自由・平和主義(しゅぎ主張(しゅちょうする論陣(ろんじん(る。第二次世界大戦(たいせん後,自由党(じゆうとうに入り,46年,総選挙(そうせんきょ立候補(りっこうほして落選(らくせんするが,民間(みんかん人のまま吉田茂(よしだしげる内閣(ないかく大蔵大臣(おおくらだいじん就任(しゅうにん。47年に衆議院議員(しゅうぎいんぎいんになるがGHQ(連合国最高司令官総司令(れんごうこくさいこうしれいかんそうしれい部)と対立し公職(こうしょく追放処分(しょぶんをうける。51(昭和26)年に復帰(ふっき,54年,鳩山一郎(はとやまいちろう内閣(ないかく通産大臣(つうさんだいじん就任(しゅうにん,56年に自由民主党(じゆうみんしゅとう総裁(そうさい(えらばれ,総理大臣(そうりだいじん就任(しゅうにん。しかし内閣(ないかく組閣(そかく直後に肺炎(はいえん脳梗塞(のうこうそく徴候(ちょうこうがあり,わずか2か月で退陣(たいじん東洋経済新報(とうようけいざいしんぽう社時代に議会(ぎかいに出席できなくなった浜口雄幸(はまぐちおさち首相の退陣(たいじん要求(ようきゅうしたことへの信義(しんぎを通した決断(けつだんといわれる。その後,健康(けんこう回復(かいふくし,政界(せいかい重鎮(じゅうちんとして,ソ(れん・中国との交流促進(そくしんにつとめた。

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