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**いとうひろぶみ【伊藤博文】

(1841〜1909)明治政府(めいじせいふ最大(さいだい指導(しどう者。長州藩(ちょうしゅうはん山口(やまぐち県)の下級武士(ぶしの出身。はじめの名は俊輔(しゅんすけといい,松下村塾(しょうかそんじゅくに学び,尊王攘夷(そんのうじょうい運動に重要(じゅうよう役割(やくわりをはたした。明治新政府(めいじしんせいふでは財政(ざいせい殖産興業(しょくさんこうぎょう政策(せいさく担当(たんとうしたが,大久保利通(おおくぼとしみちの死後は自由民権(みんけん運動への対策(たいさくにつとめ,藩閥政府(はんばつせいふの中心となった。その後,内閣制度(ないかくせいど成立(せいりつ後の最初(さいしょの首相,大日本帝国憲法(ていこくけんぽう作成(さくせい枢密院(すうみついん議長(ぎちょう日清戦争(にっしんせんそう日露戦争(にちろせんそう指導(しどう立憲政友会(りっけんせいゆうかい総裁(そうさい韓国統監(かんこくとうかんなど,日本の(もっと重要(じゅうよう政策(せいさく展開(てんかいされるところには,つねに伊藤(いとう活躍(かつやくがあった。1909(明治(めいじ42)年,中国東北地方のハルビンで朝鮮(ちょうせん革命(かくめい安重根(アンジュングン射殺(しゃさつされた。

コーチ

憲法調査(けんぽうちょうさのため渡欧(とおうした伊藤(いとうは,当時の日本と国情(こくじょう(かよったドイツの憲法(けんぽうを研究して帰り,君主(けんの強い憲法(けんぽう制定(せいていした。

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