平氏をほろぼした源頼朝が征夷大将軍となり,相模国(神奈川県)に開いた幕府。日本最初の武家政権で,1333年まで約150年間つづいた。
将軍と御家人
頼朝は自分のもとに集まってくる武士は,御家人としてその土地の所有権をみとめ,その代わり幕府への忠誠を義務づけた(御恩・奉公)。将軍と御家人は御恩と奉公の関係でむすばれ,幕府をささえる重要な柱となった。政治の機関として,将軍を中心に,中央に政所(はじめ公文所)・侍所・問注所がおかれ,政所は政治を,侍所は軍事を,問注所は訴えや裁判を受けもった。一方,地方には朝廷や公家の公領や荘園があったので,頼朝は一応これをみとめながらも,自分の御家人を任命して,諸国に守護を,公領や荘園に地頭をおいた。守護は,その国の軍事・警察の仕事を,地頭は荘園の年貢のとりたてや警察の仕事をした。
コーチ
守護・地頭を全国においたことで,武家政治の基礎がきずかれた。
北条氏による執権政治
頼朝の死後,幕府の実権は頼朝の妻政子と,その父の北条時政の手にうつった。第3代将軍源実朝が暗殺されて源氏の将軍が絶えると,名ばかりの将軍を京都からむかえ,執権政治を行った。執権は将軍を助けて政治を行う役職で,北条氏は代々執権として政治を独占した。後鳥羽上皇が幕府をたおそうとしておこした1221年の承久の乱は幕府側の大勝利となり,以後,朝廷の力はおとろえ,幕府の力は全国にのびていった。承久の乱後,執権となった北条泰時が,執権政治を確立した。泰時は執権を助ける連署をおき,さらに十数人の評定衆をもうけて政治を話し合いで進めた。また,承久の乱後,あらそいごとがふえたので,御成敗式目(貞永式目)51か条を定め,武士のおきてとした。このあと,執権北条時頼は引付衆をもうけて,公正な政治を行った。しかし,13世紀後半,元(中国)の大軍が北九州をおそった元寇を境に幕府の勢いはおとろえ,1333年に後醍醐天皇らによってほろぼされた。
年代暗記
鎌倉幕府の滅亡…いざ,さんざん(1333)に鎌倉を