*かんせいいがくのきん【寛政異学の禁】 江戸(えど)時代中期,老中(ろうじゅう)松平定信(まつだいらさだのぶ)が寛政(かんせい)の改革(かいかく)で行った学問の統制(とうせい)。1790(寛政(かんせい)2)年,定信(さだのぶ)は儒学(じゅがく)のうち朱子学(しゅしがく)を正学,他を異学(いがく)とし,幕府(ばくふ)の学問所である昌平坂(しょうへいざか)学問所では朱子学以外(しゅしがくいがい)の講義(こうぎ)を禁止(きんし)し,役人登用試験(しけん)も朱子学(しゅしがく)だけにした。官学(かんがく)である朱子学(しゅしがく)をさかんにしようとしたものであり,諸藩(しょはん)の藩校(はんこう)でもこれにならうものも出た。コーチ 昌平坂(しょうへいざか)学問所では朱子学以外(しゅしがくいがい)の講義(こうぎ)を禁止(きんし)したということであり,朱子学以外(しゅしがくいがい)の学派(がくは)を禁止(きんし)したわけではない。