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**げんぺいのそうらん【源平の争乱】

平安時代の終わりに,源氏(げんじ平氏(へいしがくりひろげた一(れん(たたかい。

平氏打倒(へいしだとうの動き

1156年の保元(ほうげん(らんによって,武士(ぶし棟梁(とうりょう統率(とうそつ者)である源氏(げんじ平氏(へいしは,政治(せいじの表舞台(ぶたいに登場するきっかけをつかんだ。それから3年後の1159年,源義朝(みなもとのよしとも平清盛(たいらのきよもり勢力争(せいりょくあらそいから平治(へいじ(らんがおこった。義朝(よしともをたおした清盛(きよもり貴族(きぞくに代わって政権(せいけんをにぎり,「平家にあらざれば人にあらず」といわれるほど繁栄(はんえいをきわめた。しかし,こうした平氏(へいしに対する貴族(きぞくや寺院・武士(ぶしの反感も高まっていった。

源平(げんぺいあらそう

1180年,源頼政(みなもとのよりまさ以仁(もちひと王(後白河(ごしらかわ法皇(ほうおうの子)とはかって(へいをあげた。以仁(もちひと王らはやぶれたが,平氏打倒(へいしだとう(をうかがっていた源氏(げんじは,これを契機(けいきにまきかえし,源頼朝(みなもとのよりとも伊豆(いず静岡(しずおか県)で,源義仲(みなもとのよしなか木曽(きそ長野(ながの県)で(へいをあげ,奈良(ならでは僧兵(そうへい反抗(はんこうもおこった。これに対し平氏(へいしは,奈良(なら東大寺(とうだいじ興福寺(こうふくじ(きうちにし,軍隊(ぐんたいをさしむけて源氏(げんじ進撃(しんげきをふせごうとしたが,源氏(げんじの矢つぎばやの攻撃(こうげきを受けて京都(きょうとから追われ西国へ(げた。頼朝(よりともの弟,源義経(みなもとのよしつねらのひきいる源氏(げんじ(ぐん一ノ谷(いちのたに兵庫(ひょうご県)や屋島(やしま香川(かがわ県)の(たたかいで平氏(へいし(ぐんをやぶり,1185年に壇ノ浦(だんのうら山口(やまぐち下関(しものせき市)の(たたかいで平氏(へいしをほろぼした。

コーチ

平氏滅亡(へいしめつぼう後,実権(じっけんをにぎった頼朝(よりとも守護(しゅご地頭(じとう設置(せっちし,1192年に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん(にんじられた。頼朝(よりともが開いた幕府(ばくふ鎌倉幕府(かまくらばくふという。

年代暗記

平氏(へいし滅亡(めつぼうする…人びと夜行(1185)で平氏(へいし滅亡(めつぼう

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