(574〜622)飛鳥時代の政治家。
〔天皇中心の国づくり〕
用明天皇の
皇子で,母が宮中の馬小屋の前に来たとき生まれたとつたえられ,
廐戸皇子とよばれた。593年,20
歳でおばの
推古天皇の
摂政(
天皇の代理)となり,
大臣の
蘇我馬子と
協調しながら
政治を行った。太子の
願いは,
豪族たちの
争いをやめさせて
天皇中心の強力な国家をつくることにあり,
冠位十二階を定めて
有能な
人材を役人に登用したり(603年),
十七条の
憲法で
豪族や役人の心がまえを
説いた(604年)。また,
小野妹子を
遣隋使として中国につかわし(607年),
隋と対等の国交を開き,
大陸の文化や
制度を
移入した。
〔仏教をさかんにする〕
太子はまた,
仏教を深く
信仰し,これを日本でもさかんにしようとして,594年に
仏教興隆の
詔を出した。そして,
四天王寺や
法隆寺をたてる一方,
経典を研究し,「
三経義疏」という
注釈書をあらわした。太子の
仏教奨励策の
結果,都のあった
飛鳥地方(
奈良盆地の南部)を中心に,すぐれた
仏教文化がさかえた。
コーチ
太子の
政治として,
冠位十二階・
十七条の
憲法・
遣隋使などが
重要。
飛鳥文化