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しんどうかねと【新藤兼人】

(1912〜2012)昭和・平成(へいせい時代の脚本家(きゃくほんか映画監督(えいがかんとく広島(ひろしま県生まれ。裕福(ゆうふくな農家の子に生まれるが,14(さいのとき一家は破産(はさん。20(さいのころ映画(えいがの世界をこころざし,臨時雇(りんじやといなどで金を(め,京都(きょうとに出て,映画撮影所(えいがさつえいじょ雑役(ざつえきからスタートする。美術(びじゅつ部,建築(けんちく部に(ぞくしながら脚本(きゃくほんの勉強を(つづけ,1942(昭和17)年,公募脚本(こうぼきゃくほん当選(とうせん,44年,松竹(しょうちく大船撮影所(さつえいじょ脚本(きゃくほん部に入るが召集(しょうしゅう。第二次世界大戦(たいせん終戦後(しゅうせんご,45年に現場復帰(げんばふっき,その年の秋に書いた脚本(きゃくほんが46年に『待ちぼうけの女』で映画(えいが化され,(はじめて実力を(みとめられる。46〜49年には溝口健二(みぞぐちけんじ吉村公三郎(よしむらこうざぶろう木下恵介(きのしたけいすけらの映画監督(えいがかんとくのもと脚本家(きゃくほんかとして多くのヒット作を手がける。しかし,50年,会社(がわと対立して退社(たいしゃ独自(どくじの映画づくりをするために俳優殿山泰司(はいゆうとのやまたいじらと近代映画協会(えいがきょうかい設立(せつりつ。51年,『愛妻(あいさい物語』で映画監督(えいがかんとくとしてデビュー。52年の『原爆(げんばくの子』,60年の『(はだかの島』など社会(せい前衛性(ぜんえいせいの強い作品を発表,日本国内以上(いじょうに海外の映画祭(えいがさいなどで高い評価(ひょうかを受ける。以降(いこう独立(どくりつプロダクションながら『悪党(あくとう』(65年),『(はだかの十九才』(70年),『竹山(ちくざんひとり旅』(77年),『北斎漫画(ほくさいまんが』(81年),『午後の遺言状(ゆいごんじょう』(95年)など(すぐれた作品を世に問いつづけた。2010(平成(へいせい22)年,98(さいで『一(まいのハガキ』を監督(かんとく,日本最高齢監督(さいこうれいかんとくとして健在(けんざいぶりを(しめしたが,2012年5月,老衰(ろうすい(ぼつ。名作脚本(きゃくほんとして『しとやかな(けだもの』(川島雄三監督(かわしまゆうぞうかんとく),『けんかえれじい』(鈴木清順監督(すずきせいじゅんかんとく)などもある。

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