パレスチナ地方をめぐる、イスラエルとアラブ諸国の間で起こった4度にわたる戦争。
1948~1949年 第一次中東戦争
パレスチナ戦争ともいう。1948年5月、イスラエルが建国すると同時に、周辺アラブ諸国(ヨルダン、エジプト、イラク、レバノン、シリア)が反発し、パレスチナを取り戻そうとイスラエルに侵攻。イスラエルが逆に、パレスチナの大部分を占領したところで停戦となった。
一見すると兵力でアラブ諸国が有利に見えたが、ヨルダン国王がイスラエルと秘密に交渉するなど、アラブ側は足並みが乱れていた。このためイスラエルが勝利し、国連の分割決議では60%ほどとされていた割合を上回る領土を得た。敗れたアラブ諸国側が確保できたのはパレスチナの22%ほどの領域だけ。このときエジプトが占領したのが「ガザ地区」、ヨルダンが占領したのが「ヨルダン川西岸地区」。そして、70万人のアラブ人(パレスチナ人)が故郷を追われて難民になった。これは当時のパレスチナの人口の半分に相当し、この悲劇をパレスチナ人は「ナクバ(大災厄)」と呼ぶ。
1956~1957年 第二次中東戦争
スエズ戦争ともいう。
アラブ諸国の政治は、第一次中東戦争で敗北したことでダメージを受けていた。エジプトやイラクでは革命が起き、王政が倒れた。その後のエジプトで大統領に就任したナセル大統領は1956年、イギリス・フランスが植民地支配時代から管理権を持っていたスエズ運河をエジプトのものにしようとした。これに反発したイギリス・フランスはエジプトを攻撃し、イスラエルもイギリス・フランス側で参戦。アメリカ・ソ連がともに停戦をよびかけたため、軍事的には不利だったエジプトが、有利な条件で戦争を終えた。この結果を受けて、ナセル大統領はアラブ諸国のリーダーとして注目を集め、アラブ諸国はエジプトを中心にイスラエルとの対決姿勢を強めていった。
1967年 第三次中東戦争
六日戦争ともいう。1967年6月に開戦し、短期間で停戦。
アラブ諸国とイスラエルの緊張が高まる中で、エジプトはイスラエルにとって重要な輸送手段であるチラン海峡を封鎖するなどして圧力をかけた。そしてこれに対し、イスラエルがエジプトとシリアへ奇襲攻撃を仕掛けて大勝利をおさめ、エジプトからガザ地区とシナイ半島、ヨルダンから東エルサレムをふくむヨルダン川西岸、シリアからゴラン高原を奪った。イスラエルは、支配する領域を、建国時のほぼ4倍にまで広げた。
1973年 第四次中東戦争
1973年10月、第三次中東戦争で多くの領土を失ったアラブ諸国のうち、エジプトとシリアがその領土を取り返すためにイスラエルへ奇襲攻撃。はじめのうちはアラブ諸国側が優勢でしたが、後半でイスラエルが押し戻し、停戦した。このころアラブ諸国側にとって大事なのは自国の領土になっていて、イスラエルと対立する本来の原因だったはずのパレスチナ地域の土地の分配といった問題への関心は薄れていた。
またこの戦争中、石油を産出するアラブ諸国は「イスラエルに味方する国には石油の輸出を制限する」という石油戦略を発動。これにより、世界的に石油の価格が値上がりする「石油危機」(オイルショック)が起きた。