(1836〜83)江戸幕府第13代将軍徳川家定の正室(妻)。薩摩藩主島津家の分家,今和泉島津家の島津忠剛のむすめとして鹿児島で生まれる。正式の名は敬子,通称篤子。従兄にあたる薩摩藩主島津斉彬の養女となったのち,左大臣近衛忠熙の養女となり,1857年,21歳で徳川家定の3人目の正室になる。これは薩摩藩の力を幕府が利用し,将軍のあとつぎ問題を有利に運ぼうとする幕府老中阿部正弘と島津斉彬のくわだてた政略結婚だった。しかし翌58年,家定は病死,尼となって天璋院を号する。1860年,ふたたび江戸城本丸に入り,1866年まで混乱する大奥の取り締まりにあたる。鳥羽・伏見の戦いののち,第15代将軍徳川慶喜の意向をうけて徳川家救済のために力を尽くす。1868年,江戸城開城後は一橋家の邸宅に移り住み,徳川宗家を相続した田安亀之助(徳川家達)の養育に専念した。1883(明治16)年,病死。