老中水野忠邦が,1841〜1843(天保12〜14年)に行った江戸幕府の政治改革。天保のききん・大塩の乱・日本近海に出現する外国船など,社会不安の高まるなかで老中となった水野忠邦は,享保の改革・寛政の改革にならって天保の改革を実施した。倹約をすすめ,風俗をただし,都市にでた農民を村に返す(人返し)一方,都市の商業を独占する株仲間を解散し,江戸・大阪周辺の大名・旗本領を取り上げて,他に代わりの土地をあたえる(上知令)など,改革政治を進めた。しかし,その改革は幕府本位できびしすぎたため,2年あまりで失敗に終わった。
年代暗記
天保の
改革の開始…人はよい(1841)のに
水野失敗史料
天保の
改革の
内容1841年…
将軍徳川家斉が病死。
水野忠邦による
天保の
改革が始まる。
株仲間を
解散。
1842年…
諸物価引き下げ
令を出す。外国船
打払令をあらため,
燃料・水・
食料の
給与をゆるす。
柳亭種彦・
為永春水らの
著書・
版木を
没収,
焼却する。
1843年…
諸国の
人別をあらため,人返しを行う。
印旛沼の
干拓を命じる。
江戸10里・
大阪5里四方の
上知令を出す―
翌月に
撤回。
水野忠邦が
失脚。