(1536/37〜1598)安土桃山時代,織田信長のあとをついで天下を統一した武将。
〔天下の統一〕
中村(今の
名古屋市)の農家に生まれ,父はもと
足軽。はじめ
日吉丸といい,やがて
木下藤吉郎と名のった。
足軽として
織田信長に仕え,才気と行動力で重用され,
浅井氏の
滅亡後はその
旧領をあたえられて
長浜城主となり,
羽柴秀吉と
改名。1582年,中国地方平定のさなかに
信長の死(
本能寺の
変)の知らせを受けると,ただちに
毛利氏と
和睦して引き返し,
明智光秀を
山崎の
戦いでたおし,
翌年には
柴田勝家を
賤ヶ岳の
戦いでやぶり,
統一事業の
後継者となった。ついで四国・九州を平定し,1590年,
小田原(
神奈川県)の
北条氏をほろぼして天下を
統一した。
〔秀吉の統一政治〕
この間,
秀吉は
大阪城をきずいて
本拠とし(1583年),
朝廷から
関白ついで
太政大臣に
任じられ,
豊臣の
姓をたまわった。1591年には
関白を
養子の
秀次にゆずり,
以後,
太閤(前
関白の意味)とよばれた。
秀吉は,
信長の
政策を受けついで
関所を
廃止し,
楽市・
楽座の
制を広げ,
重要都市・
鉱山を
直轄し,
貨幣を
鋳造した。また,
太閤検地と
刀狩を
全国的に行って,農業
政策と
兵農分離を進めた。
〔秀吉の対外政策〕
秀吉は外国との
貿易には
熱心で,
倭寇を取りしまるとともに,
貿易に
従事する日本の商船には
朱印状をあたえて
保護した。また,インド・ルソン(フィリピン)・
台湾にまで国書を送って,
貿易しようとした。キリスト教にははじめ
寛大であったが,九州平定後,バテレン
追放令を発した(1587年)。ついで,1592年からは
明国への
戦いをくわだて,
朝鮮侵略(
文禄・
慶長の
役)は
戦況が思うにまかせぬまま,
秀吉の死で中止され,
結果的には
豊臣氏の
滅亡を早めることになった。
コーチ
秀吉が行った
太閤検地・
刀狩によって
封建制度の
基礎がつくられた。