メニュー閉じる

にいじまやえ【新島八重】

(1845〜1932)江戸(えど時代末期(まっき昭和(しょうわ時代初期(しょき女性(じょせい同志社創立者(どうししゃそうりつしゃ新島襄(にいじまじょう(つま会津藩(あいづはん砲術師範(ほうじゅつしはんの子として生まれ,1868年の会津戦争(あいづせんそうでは,男装(だんそうして(じゅうと刀を持って(たたかった。最初(さいしょ(おっと川崎尚之助(かわさきしょうのすけ(わかれた後,1871年,京都府顧問(きょうとふこもんとなっていた兄の山本覚馬(やまもとかくま(たよって京都(きょうとへ。兄の元に出入りしていた新島襄(にいじまじょうと知り合い,1876年1月に再婚(さいこん(じょうは1875年に同志社英(どうししゃえい学校(後の同志社(どうししゃ大学)を創設(そうせつしていた。1876年11月,(じょうによる同志社(どうししゃ女学校(後の同志社(どうししゃ女子大学)の開設(かいせつ(ささえる。1890年,(じょう急逝(きゅうせいした後,八重(やえ日本赤十字社(にほんせきじゅうじしゃの正社員となり,1894年の日清戦争(にっしんせんそうでは看護婦(かんごふとして従軍(じゅうぐん負傷者(ふしょうしゃ看護(かんごだけでなく,看護婦(かんごふ地位(ちい向上にも(つとめた。1904年の日露戦争(にちろせんそうにも看護婦(かんごふとして従軍(じゅうぐんした。

PAGETOP