メニュー閉じる

ひらぬまきいちろう【平沼騏一郎】

(1867〜1952)明治(めいじ〜昭和時代の司法官(しほうかん政治家(せいじか,第35代内閣総理大臣(ないかくそうりだいじん津山藩(つやまはん岡山(おかやま県)の武士(ぶしの子に生まれる。1888(明治(めいじ21)年,帝国(ていこく大学法科(ほうか大学(東京(とうきょう大学法学部(ほうがくぶ)を卒業(そつぎょう以降法曹(いこうほうそうの道を歩む。1911年に刑事局長(けいじきょくちょう,12(大正(がん)年検事総長(けんじそうちょう,21年に大審院院長(だいしんいんいんちょうにまで登りつめる。この間,大逆事件(たいぎゃくじけん,シーメンス事件(じけんなどで敏腕(びんわんをふるう。24年には貴族院(きぞくいん議員(ぎいん枢密顧問官(すうみつこもんかん就任(しゅうにん徹底(てっていした右翼(うよく国粋主義者(こくすいしゅぎしゃとして知られ,軍部(ぐんぶからは首相候補(こうほとしてしばしば待望(たいぼうされたが,元老(げんろう政党人(せいとうじんからは(きらわれた。1939(昭和14)年1月,日中戦争(にっちゅうせんそう拡大(かくだいするなか,第1次近衛文麿(このえふみまろ内閣(ないかく後継(こうけい平沼(ひらぬまを指名して総辞職(そうじしょくし,内閣総理大臣(ないかくそうりだいじん就任(しゅうにん。しかし8月,突然(とつぜん(どく不可侵条約(ふかしんじょうやく締結(ていけつ(ほう(せっし,「欧州情勢(おうしゅうじょうせい複雑怪奇(ふくざつかいき」の言葉を(のこし,退陣(たいじん。その後,第2次近衛内閣(このえないかく国務大臣(こくむだいじん内務大臣(ないむだいじん(つとめ,45年にはふたたび枢密院(すうみついん議長(ぎちょう就任(しゅうにん終戦(しゅうせんにさいしては無条件降伏(むじょうけんこうふくに反対,極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん東京裁判(とうきょうさいばん)でも徹底的(てっていてき反共主義(はんきょうしゅぎをつらぬき,A級戦犯(せんぱんとして終身禁錮(きんこ判決(はんけつを受ける。1952年,病没(びょうぼつ

PAGETOP