(1878〜1948)大正・昭和時代の外交官・政治家,第32代内閣総理大臣。福岡県の貧しい石屋の子に生まれる。軍人志望だった17歳のとき日清戦争講和後の三国干渉を経験し,外交の重要性を痛感して外交官を目ざしたといわれる。1906(明治39)年,東京帝国大学を卒業し外務省に入る。欧米局長,ソ連大使などを歴任,1933(昭和8)年に斎藤実内閣,34年に岡田啓介内閣で外務大臣を務める。36年,二・二六事件で倒れた岡田内閣のあと急きょ指名を受けて内閣総理大臣に就任。官僚を中心に組閣したが軍部の圧力は強く,陸海軍大臣の現役武官制復活,日独防共協定締結など戦争への道すじをつける結果となった。軍部の発言をおさえられずに11か月で退陣。37年の第1次近衛文麿内閣でふたたび外務大臣に就任するが,この年日中戦争が勃発。1945(昭和20)年の戦争末期には対ソ連工作を行うが失敗。第二次世界大戦終結後の極東国際軍事裁判(東京裁判)で文官でただ1人A級戦犯に指名され,48年死刑。