(1928〜2009)昭和時代の水泳選手,スポーツ指導者。静岡県に生まれる。小学生のころから「豆魚雷」と新聞で報道されるほどの水泳少年だったが,第二次世界大戦で水泳は中断,活躍するのは終戦後,日本大学に進学してからだった。1948(昭和23)年,敗戦国のため日本が参加できなかったロンドンオリンピックと同時に行われた日本選手権で,400m自由形で4分33秒4,1500m自由形で18分37秒0の世界記録を出すが日本は国際水泳連盟を除名されていたため公式記録とは認められなかった。日本が国際水泳連盟に復帰した1949年,全米選手権に出場,400m自由形4分33秒3,800m自由形9分33秒5,1500m自由形18分19秒0の世界新記録を樹立,アメリカの新聞で「フジヤマのトビウオ」と絶賛された。1952年のヘルシンキ・オリンピックに正式出場するがすでに選手としてのピークは過ぎており400m自由形8位に終わる。選手引退後は,日本水泳連盟会長,日本オリンピック委員会(JOC)会長などを歴任,日本の水泳界・スポーツ界の発展に大きく貢献した。2009(平成21)年8月,国際水泳連盟の副会長としてイタリアのローマでの総会に参加中,現地で没する。