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**へいじょうきょう【平城京】

710年に,元明天皇(げんめいてんのう藤原京(ふじわらきょうより遷都(せんとしてから,784年桓武天皇(かんむてんのう長岡京(ながおかきょうにうつるまでの都。現在(げんざい奈良市(ならし西方にあたる。

平城京(へいじょうきょうにうつる〕

 7世紀(せいきごろまでは,天皇(てんのうが代わるごとに都はうつっていた。しかし,律令制度(りつりょうせいどがととのい,大陸(たいりくとの交流がさかんになると,(とう(中国)にならって大規模(きぼな都をつくり,律令(りつりょう国家の威信(いしんを内外に(しめそうという動きがおこった。最初(さいしょの大規模(きぼな都として,694年に藤原京(ふじわらきょう奈良(なら橿原(かしはら市)がつくられたが,わずか16年間の都であった。710年,元明天皇(げんめいてんのうのときに,平城京(へいじょうきょう奈良(なら市)がつくられた。これ以後(いご,784年までの70年あまり,都としてさかえ,この時代を奈良(なら時代という。

〔都のようす〕

 平城京(へいじょうきょう(とうの都長安(ちょうあん(今の西安(シーアン)にならってつくられ,東西(やく4.3km,南北(やく4.8kmの規模(きぼで,東西・南北に規則(きそく正しくならべた道路で,ごばんの目のようにくぎられた。皇居(こうきょ政府(せいふの役所などがある大内裏(だいだいりをはじめ,貴族(きぞくや役人の住まい,大寺院などがたちならび,庶民(しょみんの住むかやぶきの家や,田や畑も広がっていた。都の東西に市があり,さまざまな品物が取り引きされ,和同開珎(わどうかいちんなどの通貨(つうかも使われた。人口は(やく10万人で,その中で高級貴族(きぞく(やく100人,中級役人は600人程度(ていどだった。◇役所・貴族(きぞくのやしき・寺院などの建物(たてもの(しゅの柱・白壁(しらかべ,かわら屋根からなり,「青丹(あおにによし寧楽(なら(奈良)の都は(く花の にほふ(おうがごとく今(さかりなり」(小野老(おののおゆ)と歌われた。

コーチ

 1959(昭和34)年から平城宮跡(へいじょうきゅうせき本格的発掘調査(ほんかくてきはっくつちょうさが始められた結果(けっか建築(けんちく規模(きぼが明らかになり,また,おびただしい木簡(もっかん(文字を書いた板),土器(どきをはじめとする生活用具が発見された。現在(げんざい史跡(しせき公園として整備(せいび,2008年から国営歴史(こくえいれきし公園として整備(せいびされる。

年代暗記

 平城京(へいじょうきょうにうつる…奈良(ならの名入れ(710)て平城京(へいじょうきょう

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