ほうげんのらん【保元の乱】 平安時代末期(まっき)の1156年,皇位(こうい)をめぐる争(あらそ)いと藤原氏(ふじわらし)内部の勢力争(せいりょくあらそ)いとがむすびついておきた戦乱(せんらん)。鳥羽(とば)法皇(ほうおう)の死後,後白河天皇(ごしらかわてんのう)・藤原忠通(ふじわらのただみち)の天皇(てんのう)方と,崇徳(すとく)上皇(じょうこう)・藤原頼長(ふじわらのよりなが)(忠通(ただみち)の弟)の上皇(じょうこう)方との争(あらそ)いがおきたが,どちらも源氏(げんじ)・平氏(へいし)の武士(ぶし)を集めて京都(きょうと)の市内でたたかった。天皇(てんのう)方が夜襲(やしゅう)によって勝利(しょうり)をおさめたが,この戦(たたか)いで武士(ぶし)がその実力を示(しめ)し,平清盛(たいらのきよもり)・源義朝(みなもとのよしとも)らが中央政界(せいかい)に進出するきっかけとなった。年代暗記 保元(ほうげん)の乱(らん)…いいころ(1156)保元(ほうげん)