『魏志』倭人伝に記された,3世紀ころの日本にあった国。30あまりの小国をしたがえ,女王卑弥呼がおさめていたとされる。『魏志』倭人伝には,邪馬台国へのルートが記されているが,あいまいな点や不明な点が多く,実際にあった位置は不明。「九州説」「大和(近畿)説」を中心に論争がくりかえされている。
〔女王・卑弥呼〕
邪馬台国をおさめていた女王,卑弥呼については,生まれた時期や,いつ女王になったかなど不明な点も多いが,「鬼道につかえ,よく衆を惑わす」との記述から,宗教的な力をもった巫女だと考えられている。1000人の召使いをしたがえて宮殿にこもり,めったに人前に姿を見せないということからも,その力の性格がうかがえる。実際の政治は,ただ1人卑弥呼の宮殿に出入りできた男子,弟が行っていたという。
〔倭国のようす〕
『魏志』倭人伝には,当時の倭国の人々のようすや生活もくわしく記述されている。それによれば,男性はみないれずみをし,髪をゆって,頭に布を巻きつけていた。服は幅広い布をからだに巻きつけたもの。女性は,布のまん中に穴をあけ,そこから頭を出す形の服を着て,髪はうしろでたばねていた。人々は稲を育て,織物をつくり,決まった税をおさめていた。また,国々には市もあったという。身分の低い者が身分の高い者に出会うと,道ばたの草むらによけたり,言葉をかわすときはうずくまるなど,身分のちがいも生まれていた。
〔魏との交流〕
卑弥呼は239年から「魏」へ何度も使いを送り,奴隷や布などの貢ぎ物をしていた。それに対し魏の王は,卑弥呼に「親魏倭王」の名と,金印・100枚の銅鏡などをあたえたという。こうした品々は,卑弥呼が強国「魏」と関係が深い証拠となり,卑弥呼の権威を高めたと考えられている。