古代ローマ後半期の君主制(帝政)の国家(紀元前27〜後395)。
〔共和政から帝政へ〕
ローマの共和政は,領土が拡大するにしたがってくずれていった。征服戦争に従軍した中小農民が没落し,市民による軍隊の維持が困難になったからである。グラックス兄弟は共和政をたてなおそうとして失敗,自分の軍隊をもつ有力者が,国の政治を左右するようになった。そのような有力者であったカエサルは,3人による三頭政治のあと政治権力を一身に集めたが,共和政派に暗殺された。つづいてオクタビアヌスも権力をにぎるが,前27年元老院からアウグスツス(尊い人)の称号を受け,国家の第一人者として政治を行った。共和政の形をのこしたが事実上の独裁政治で,帝政の始まりである。
〔ローマの平和〕
以後約200年は,おおむね平和がつづいた。ローマの領土は最大となり,征服地である属州の人々にもローマの市民権があたえられた。この時期はローマ文化の全盛期でもあった。ギリシャやエジプトなどの影響を受けたが,大帝国を統治する必要から,法律や土木・建築などには独自の優れた才能が発揮された。貿易は地中海から紅海をへてインドへものびた。
コーチ
この繁栄を,人びとは「ローマの平和」とか「永遠のローマ」といってたたえた。
〔衰退から分裂へ〕
3世紀になると,軍隊の反乱がつづいたうえにゲルマン人が侵入を始めたので,広い領土は分裂するきざしをみせた。4世紀初めコンスタンチヌス帝は都をビザンチウムにうつし,コンスタンティノープル(現イスタンブール)と改名し専制君主制をとり,それまで迫害してきたキリスト教を公認し,帝国の統一をはかった。4世紀末のテオドシウス帝はキリスト教を国教にしたものの分裂への動きをとめられず,死後,2子によって帝国は東西に2分された(395年)。
コーチ
西ローマ帝国はゲルマン人の侵入が激しくなるなかで,476年滅亡するが,東のビザンツ帝国は15世紀までなお1000年以上つづいた。
年代暗記
帝政の開始…にな(前27)う栄誉はアウグスツス
ローマ帝国の東西分裂…試行錯誤(395)で国を分け