(1866〜1949)明治〜昭和時代の官僚・政治家,第25,28代内閣総理大臣。松江藩(島根県)の貧しい武士の家に生まれる。中学退学,代用教員をつとめた後,上京。苦学しながら帝国大学仏法科を首席で卒業し,大蔵省に入る。大蔵次官までつとめあげ,1911(明治44)年,貴族院勅撰議員になり,翌12年,第3次桂太郎内閣の大蔵大臣になる。14年,第2次大隈重信内閣でも蔵相。24(大正13)年,政友会・憲政会・革新倶楽部の護憲三派連合の加藤高明内閣の内務大臣となり普通選挙法と治安維持法の制定に尽力した。25年1月,加藤の病死をうけて憲政会総裁となり,第25代内閣総理大臣に就任,前内閣の全閣僚を留任させ組閣するが,金融恐慌に対処できずに翌26(昭和2)年4月に総辞職。30年,ロンドン軍縮会議に首席全権として出席。31年,浜口雄幸首相暗殺をうけて,ふたたび内閣総理大臣になったが満州事変の勃発で8か月で総辞職した。その後は西園寺公望の重臣として第二次世界大戦の終戦まで政治工作に関わった。