(1793〜1841)江戸時代後期の洋学者・画家。三河国(愛知県)田原藩の藩士で,通称を登という。1832年,江戸づめの家老職となり,おもに海防策を担当。そのかたわら,高野長英ら蘭学者なかまと「尚歯会」をつくって西洋事情を研究した。1837年にモリソン号砲撃事件がおこると,『慎機論』をあらわして幕府の鎖国政策を批判した。そのため,蛮社の獄でとらえられ,やがて国もとに蟄居(とじこめの身)となり,2年後に自殺した。◇絵は谷文晁に学び,山水画・花鳥画や写実性にとむ肖像画にすぐれ,「一掃百態図」「鷹見泉石像」などの傑作がある。