もっと知りたいQ&A イスラエル・パレスチナ紛争
Q: ユダヤ人 はどうして「自分 たちの国 」をのぞんだの?
A: ユダヤ人が「自分たちの国」をほしがったのは、キリスト教徒の多いヨーロッパなどで差別に苦しんでいたからです。
キリスト教徒の多いヨーロッパでは、信じる宗教が違うユダヤ人たちは差別や迫害を受け続けてきました。ユダヤ人の中には、信じる宗教をキリスト教に変えたり、宗教から離れてヨーロッパ社会に溶け込もうとする人もいましたが、差別はなくなりませんでした。
19世紀には、ロシアや東ヨーロッパで多くのユダヤ人が殺されたり、その土地から追い出されたりする「ポグロム」という迫害が起きます。また西ヨーロッパでも、ユダヤ人が外国のスパイなのではないかと疑いをかけられ、差別される出来事が起きました。そうした中で、ユダヤ人の間に「自分たちの国をつくろう」という「シオニズム」が広まったのです。いくつかの候補地から、多くのユダヤ人から支持を得やすい聖地パレスチナが選ばれました。
このころ、パレスチナは、オスマン帝国という国が支配していて、多くの宗教や民族が混ざり合って暮らしていました。19世紀末から20世紀初頭には、数は少ないながらもユダヤ人のパレスチナ移住が始まりました。
Q: イギリスはなぜユダヤ人 の「郷土 」建設 を約束 したの?
A: イギリスがバルフォア宣言で、パレスチナにユダヤ人の「民族的郷土」をつくることを認めたのは、第一次世界大戦に勝つためにユダヤ人を利用したかったからです。
第一次世界大戦で、イギリス・フランスは、ドイツなどと戦いました。パレスチナを支配していたオスマン帝国はドイツ側として参加します。
イギリスは、「オスマン帝国に勝ったらパレスチナにユダヤ人が民族的郷土をつくることを認める」と言って、自分たちの国をほしがっているユダヤ系の資産家に戦争のためのお金を出させました。イギリスは「民族的郷土」と表現していて「国家」とは言っていませんでしたが、ユダヤ人は「国家」建設が認められると考えました。
一方でイギリスは、オスマン帝国を弱らせるために、帝国内のアラブ人と「帝国内で反乱を起こしてくれればアラブ独立国家を建設する」ことを約束しました(フサイン=マクマホン書簡)。さらにフランス・ロシアとは、大戦後にオスマン帝国の領土を分けあう密約も交わしていました(サイクス=ピコ協定)。イギリスがそれぞれ内容の違う無責任な3つの約束をしたことは「三枚舌外交」と呼ばれています。
イギリスは第一次世界大戦に勝ち、この3つの約束の対応に追われることになります。オスマン帝国の領土をフランスと分けあい、パレスチナはイギリスの支配に入りました。そしてパレスチナには「国家」建設を目指すユダヤ人が大勢移り込みました。
アラブ人には、イラクやヨルダンの独立を認めることでつじつまを合わせようとしました。
Q: パレスチナの人々 はどのように戦 ったの?
A: パレスチナの人々も、1964年に設立されたパレスチナ解放機構(PLO)を中心とした解放運動や、武器を持たない民衆による抵抗運動で、イスラエルに対抗しました。
PLOは、第三次中東戦争前の1964年にアラブ諸国の支援でつくられた仮の政府のようなものです。当初はヨルダンに拠点がありました。PLOは議会選挙も行っており、「ファタハ」などの政治組織が政党のような形で参加しています。ファタハのリーダーで、イスラエルに対する武装闘争で有名になったアラファトは、その議会選挙を通じてPLOの主導権を握りました。
PLOに参加する組織は、イスラエルとその同盟国をねらって、ハイジャックをしたり武器を使って戦ったりしました。しかし、このようなやり方は、PLOに拠点を提供していたアラブ諸国を困らせます。国際社会から「テロリストの味方をしている」と批判を受けただけでなく、イスラエルから軍事攻撃も受けたからです。1970年、ヨルダンは武力で国内からPLOを追い出しました。その後、PLOが拠点を移したレバノンでも内戦となり、1982年にはイスラエルも攻め込んできて、PLOはレバノンからも追い出されて弱ってしまいました。
第四次中東戦争後の1987年からはパレスチナ民衆の抵抗運動であるインティファーダが始まります。インティファーダは、イスラエルが占領していたガザ地区やヨルダン川西岸地区で起きました。民衆は武器を持っていないため、イスラエル軍の車両や兵士に石を投げるなどして抵抗したのです。
Q: イスラエルとパレスチナはどうしてオスロ合意 で歩 み寄 れたの?
A: パレスチナ人の抵抗運動に不安を感じていたイスラエル、国際的に孤立しそうだったパレスチナ解放機構(PLO)という、両方に和平を進めるメリットがあったからです。
1987年におこったパレスチナ人の抵抗運動(インティファーダ)は、イスラエルが軍事力で押さえつけても止まらず、イスラエルは地域を占領し続けることに不安を感じ始めます。
1991年、中東地域では湾岸戦争という大きな出来事がありました。イラクのフセイン大統領が隣国クウェートに攻め込んだのを、アメリカを中心とする多国籍軍が追い返した戦争です。アメリカは湾岸戦争をきっかけに、中東地域を安定した地域にしたいと考え、イスラエルとパレスチナに争いをやめるよう和平会議を呼びかけました。
イスラエルは、同盟国のアメリカから強く迫られて、しぶしぶ応じました。
アラファトが率いるPLOもこのころ苦しい状況にありました。湾岸戦争の時、PLOはパレスチナに味方する発言をしたイラクのフセイン大統領を支持しました。そのためイラクと同じく、アラブ諸国を含む多くの国を敵に回してしまっていたのです。
同じ1991年、それぞれの事情からイスラエルと、PLOが認めたパレスチナ人代表団はスペイン・マドリードで開かれた和平会議に出席しました。しかし、和平には難問が山積みで、会議はうまくいきませんでした。具体的には、パレスチナ難民がもともといた土地に帰る権利をどうするか、パレスチナ国家をつくる場合に国境をどのように引くか、キリスト教とイスラム教の両方の聖地とされるエルサレムの扱いをどうするか、イスラエル人がパレスチナ人の土地に集団で移り住んだ入植地をどうするか―といったことが問題でした。この問題は、まとめて「最終的地位」と呼ばれています。
1992年にイスラエルの首相が交代すると、和平が進むきっかけとなりました。新たに就任したラビン首相は、インティファーダの時の国防大臣で、占領を続ける難しさをよく知っていたからです。
1993年、イスラエルとPLOは、最終的地位についての解決は先送りしながらも、和平交渉を進めるための歴史的な合意を結びました。このあと5年のあいだ、パレスチナ人に暫定的な自治を行わせながら、交渉を続けることが約束されました。これが、交渉が行われたノルウェーの首都オスロにちなみ、オスロ合意と呼ばれます。
Q: オスロ合意 はその後 どうしてうまくいかなかったの?
A: いちばんの課題であった「最終的地位」について交渉を先送りにしたからです。交渉を進めていくほどに、お互いにゆずりあうことが求められ、それを不満に思う人々がイスラエルとパレスチナの両方にでてきて、和平に反対するようになったのです。
「最終的地位」は、パレスチナ難民がもといた土地に帰る権利をどうするか、パレスチナ国家をつくる場合に国境をどのように引くか、双方の宗教で聖地とされるエルサレムの扱いをどうするか、イスラエル人がパレスチナ人の土地に集団で移り住んだ入植地をどうするかといった問題です。
イスラエルではラビン首相がパレスチナ側に歩みよったことは、イスラエルの愛国主義者にとって裏切りとみなされました。1995年、ラビン首相は愛国主義者のイスラエル人青年に暗殺されます。もともと難題を抱えていた和平交渉は、これによりほぼ止まってしまいました。
一方、パレスチナでは、イスラム組織ハマスがイスラエルへの武装闘争を続け、新たな戦術である「自爆攻撃」を行うようになりました。
2000年にはパレスチナ人による暫定自治が期限を迎えてしまい、「最終的地位」の交渉はまとまりませんでした。その矢先、イスラエルの有力政治家がエルサレムにあるイスラム教の聖地を訪れたことが「エルサレムはすべてイスラエルのものだ」というメッセージとなり、パレスチナ人は激しく怒り、イスラエルへの抵抗運動(インティファーダ)が再び起きました。
1987年に始まった抵抗を「第一次インティファーダ」、2000年に始まった抵抗を「第二次インティファーダ」と呼ぶことがありますが、そのやり方は大きく違います。第一次は武器らしい武器をもたない民衆の戦いでしたが、第二次はハマスなどの武装組織が中心になりました。ハマスによる自爆攻撃がイスラエル国内で繰り返し行なわれ、イスラエル軍は圧倒的な軍事力でパレスチナ自治区へ何度も攻め込みました。こうして、和平交渉は完全に壊れてしまいました。
オスロ合意による和平は行き詰まり、その後もアメリカを仲介役として交渉再開への努力は続けられましたが、うまくいきませんでした。
Q: パレスチナの自治 はどうなったの?
A: ハマスが支配するガザ地区はイスラエルに封鎖され、ファタハが支配するヨルダン川西岸地区はユダヤ人の入植者との衝突が続き、それぞれ苦しい状況になっています。
1994年、オスロ合意にもとづいてパレスチナ人による暫定自治が始まりました。これ以後、ヨルダン川西岸の一部とガザ地区を合わせた地域を「パレスチナ自治区」または「パレスチナ国」と呼びます。ただ、パレスチナ人にすべての地域を管理する権限があるわけではありません。ヨルダン川西岸は、パレスチナ人がすべて管理できるA地区、パレスチナ・イスラエルが共同で管理するB地区、イスラエルの統治が続くC地区に分かれています。
2006年、パレスチナの議会選挙でイスラム組織ハマスが勝利したことをきっかけに、ガザ地区をハマス、ヨルダン川西岸をファタハが統治する形でパレスチナは分裂します。イスラエルはハマスの支配するガザ地区を封鎖したため、ガザ地区は経済のほとんど成り立たない状況になり、人々の生活は追い詰められていきました。
ヨルダン川西岸地区の状況も深刻です。その原因は、イスラエルがユダヤ人のためにつくった入植地です。入植者として移り住むユダヤ人は、身を守るためという理由で武器を持つことを認められています。その入植者の一部は「ヨルダン川西岸もイスラエルのものだ」と信じており、パレスチナ人に危害を加えたり、家屋を焼いたりする事件を起こしています。こうした入植者の暴力は、イスラエル政府でさえ止めることができていません。また、ファタハも治安を維持する力が弱く、パレスチナの若者たちが独自の武装組織をつくるようになっています。ガザ地区よりも人口が多いヨルダン川西岸で、ユダヤ人とパレスチナ人の衝突が激しくなった場合、さらに大変な状況におちいる可能性があります。
Q: アメリカの立場 は?
A: アメリカは、イスラエルを中東地域の大事な同盟国として、ずっと味方する立場をとっています。
4度にわたる中東戦争が起きていたころ、アメリカはソビエト連邦(ソ連)と激しく対立していました(冷戦)。1967年の第三次中東戦争でイスラエルが、ソ連と近い関係にあったアラブ諸国に勝利したため、アメリカはイスラエルに同盟国としての期待を強めます。
当時のアメリカは、中東にイランという同盟国を持っていましたが、そのイランは1979年に革命が起きてアメリカと敵対するようになります。それ以来、イスラエルは、アメリカにとって中東でのほとんどただひとつの同盟国として特別な関係を築いてきたのです。
現在でもアメリカはいつもイスラエルに味方し続けています。2023年12月8日に国連の安全保障理事会で、イスラエルに対してガザ地区での即時停戦を求める決議が行われました。15カ国のうち、日本やフランスなど13カ国が賛成しましたが、アメリカが拒否権を行使したため否決されました。
アメリカ政府に影響を与えようと働きかける団体をロビー団体といいますが、アメリカには「イスラエルと同盟することが、アメリカの国益につながる」と信じている人たちが「イスラエル・ロビー」をつくっています。これには、ユダヤ人ではないアメリカ人が多く参加しています。この「イスラエル・ロビー」の力が強いことも、アメリカがイスラエルとの関係をたもっている理由のひとつです。
Q: 日本 の立場 は?
A: 日本は、イスラエル寄りの立場を取る欧米諸国とはちがう、独自路線の中東外交を行っています。
1973
監修 :鈴木啓之
1987年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科スルタン・カブース・グローバル中東研究寄付講座特任准教授。博士(学術)。日本学術振興会特別研究員PD(日本女子大学)、日本学術振興会海外特別研究員(ヘブライ大学ハリー・S・トルーマン平和研究所)を経て、2019年9月より現職。著書に『蜂起〈インティファーダ〉:占領下のパレスチナ1967-1993』(東京大学出版会、2020年)、共編著に『パレスチナを知るための60章』(明石書店、2016年)。
文/三城俊一