もっと知りたいQ&A イスラエル・パレスチナ紛争

もっと知りたいQ&A イスラエル・パレスチナ紛争

中東(ちゅうとう)の土地(とち)をめぐって長(なが)い間(あいだ)、争(あらそ)っているイスラエルとパレスチナ。学研(がっけん)キッズネットでは、争(あらそ)いの歴史(れきし)や原因(げんいん)をまとめた記事(きじ)「1からまなべる! イスラエル・パレスチナ紛争(ふんそう)の理由(りゆう)と歴史(れきし)」を公開(こうかい)していますが、そこには書(か)ききれなかったこともまだまだあります。ここでは、和平(わへい)交渉(こうしょう)の背景(はいけい)や日本(にほん)の立場(たちば)など、さらにいくつかのポイントについて、もう少(すこ)しだけくわしく紹介(しょうかい)していきます。

1からまなべる! イスラエル・パレスチナ紛争(ふんそう)の理由(りゆう)と歴史(れきし)

イスラエル・パレスチナ紛争(ふんそう) 現在(げんざい)の状況(じょうきょう)がわかる記事(きじ)はこちら


Q: ユダヤ人(じん)はどうして「自分(じぶん)たちの国(くに)」をのぞんだの?

A: ユダヤ人(じん)が「自分(じぶん)たちの国(くに)」をほしがったのは、キリスト教徒(きょうと)の多(おお)いヨーロッパなどで差別(さべつ)に苦(くる)しんでいたからです。
 
 
キリスト教徒(きょうと)の多(おお)いヨーロッパでは、信(しん)じる宗教(しゅうきょう)が違(ちが)うユダヤ人(じん)たちは差別(さべつ)や迫害(はくがい)を受(う)け続(つづ)けてきました。ユダヤ人(じん)の中(なか)には、信(しん)じる宗教(しゅうきょう)をキリスト教(きょう)に変(か)えたり、宗教(しゅうきょう)から離(はな)れてヨーロッパ社会(しゃかい)に溶(と)け込(こ)もうとする人(ひと)もいましたが、差別(さべつ)はなくなりませんでした。

「嘆きの壁」の写真

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エルサレムに残(のこ)っているユダヤ教(きょう)の重要(じゅうよう)な神殿(しんでん)の外壁(がいへき)の一部(いちぶ)「嘆(なげ)きの壁(かべ)」

19世紀(せいき)には、ロシアや東(ひがし)ヨーロッパで多(おお)くのユダヤ人(じん)が殺(ころ)されたり、その土地(とち)から追(お)い出(だ)されたりする「ポグロム」という迫害(はくがい)が起(お)きます。また西(にし)ヨーロッパでも、ユダヤ人(じん)が外国(がいこく)のスパイなのではないかと疑(うたが)いをかけられ、差別(さべつ)される出来(でき)事(こと)が起(お)きました。そうした中(なか)で、ユダヤ人(じん)の間(あいだ)に「自分(じぶん)たちの国(くに)をつくろう」という「シオニズム」が広(ひろ)まったのです。いくつかの候補(こうほ)地(ち)から、多(おお)くのユダヤ人(じん)から支持(しじ)を得(え)やすい聖地(せいち)パレスチナが選(えら)ばれました。
このころ、パレスチナは、オスマン帝国(ていこく)という国(くに)が支配(しはい)していて、多(おお)くの宗教(しゅうきょう)や民族(みんぞく)が混(ま)ざり合(あ)って暮(く)らしていました。19世紀(せいき)末(まつ)から20世紀(せいき)初頭(しょとう)には、数(かず)は少(すく)ないながらもユダヤ人(じん)のパレスチナ移住(いじゅう)が始(はじ)まりました。

Q: イギリスはなぜユダヤ人(じん)の「郷土(きょうど)」建設(けんせつ)を約束(やくそく)したの?

A: イギリスがバルフォア宣言(せんげん)で、パレスチナにユダヤ人(じん)の「民族的(みんぞくてき)郷土(きょうど)」をつくることを認(みと)めたのは、第(だい)一次(いちじ)世界(せかい)大戦(たいせん)に勝(か)つためにユダヤ人(じん)を利用(りよう)したかったからです。
 
 
第(だい)一次(いちじ)世界(せかい)大戦(たいせん)で、イギリス・フランスは、ドイツなどと戦(たたか)いました。パレスチナを支配(しはい)していたオスマン帝国(ていこく)はドイツ側(がわ)として参加(さんか)します。
イギリスは、「オスマン帝国(ていこく)に勝(か)ったらパレスチナにユダヤ人(じん)が民族的(みんぞくてき)郷土(きょうど)をつくることを認(みと)める」と言(い)って、自分(じぶん)たちの国(くに)をほしがっているユダヤ系(けい)の資産家(しさんか)に戦争(せんそう)のためのお金(かね)を出(だ)させました。イギリスは「民族的(みんぞくてき)郷土(きょうど)」と表現(ひょうげん)していて「国家(こっか)」とは言(い)っていませんでしたが、ユダヤ人(じん)は「国家(こっか)」建設(けんせつ)が認(みと)められると考(かんが)えました。
一方(いっぽう)でイギリスは、オスマン帝国(ていこく)を弱(よわ)らせるために、帝国(ていこく)内(ない)のアラブ人(じん)と「帝国(ていこく)内(ない)で反乱(はんらん)を起(お)こしてくれればアラブ独立(どくりつ)国家(こっか)を建設(けんせつ)する」ことを約束(やくそく)しました(フサイン=マクマホン書簡(しょかん))。さらにフランス・ロシアとは、大(だい)戦後(せんご)にオスマン帝国(ていこく)の領土(りょうど)を分(わ)けあう密約(みつやく)も交(か)わしていました(サイクス=ピコ協定(きょうてい))。イギリスがそれぞれ内容(ないよう)の違(ちが)う無責任(むせきにん)な3つの約束(やくそく)をしたことは「三枚(さんまい)舌(じた)外交(がいこう)」と呼(よ)ばれています。
イギリスは第(だい)一次(いちじ)世界(せかい)大戦(たいせん)に勝(か)ち、この3つの約束(やくそく)の対応(たいおう)に追(お)われることになります。オスマン帝国(ていこく)の領土(りょうど)をフランスと分(わ)けあい、パレスチナはイギリスの支配(しはい)に入(はい)りました。そしてパレスチナには「国家(こっか)」建設(けんせつ)を目指(めざ)すユダヤ人(じん)が大勢(おおぜい)移(うつ)り込(こ)みました。
アラブ人(じん)には、イラクやヨルダンの独立(どくりつ)を認(みと)めることでつじつまを合(あ)わせようとしました。


Q: パレスチナの人々(ひとびと)はどのように戦(たたか)ったの?

A: パレスチナの人々(ひとびと)も、1964年(ねん)に設立(せつりつ)されたパレスチナ解放(かいほう)機構(きこう)(PLO)を中心(ちゅうしん)とした解放(かいほう)運動(うんどう)や、武器(ぶき)を持(も)たない民衆(みんしゅう)による抵抗(ていこう)運動(うんどう)で、イスラエルに対抗(たいこう)しました。
 
 
PLOは、第(だい)三次(さんじ)中東(ちゅうとう)戦争(せんそう)前(まえ)の1964年(ねん)にアラブ諸国(しょこく)の支援(しえん)でつくられた仮(かり)の政府(せいふ)のようなものです。当初(とうしょ)はヨルダンに拠点(きょてん)がありました。PLOは議会(ぎかい)選挙(せんきょ)も行(おこな)っており、「ファタハ」などの政治(せいじ)組織(そしき)が政党(せいとう)のような形(かたち)で参加(さんか)しています。ファタハのリーダーで、イスラエルに対(たい)する武装(ぶそう)闘争(とうそう)で有名(ゆうめい)になったアラファトは、その議会(ぎかい)選挙(せんきょ)を通(つう)じてPLOの主導権(しゅどうけん)を握(にぎ)りました。
PLOに参加(さんか)する組織(そしき)は、イスラエルとその同盟(どうめい)国(こく)をねらって、ハイジャックをしたり武器(ぶき)を使(つか)って戦(たたか)ったりしました。しかし、このようなやり方(かた)は、PLOに拠点(きょてん)を提供(ていきょう)していたアラブ諸国(しょこく)を困(こま)らせます。国際(こくさい)社会(しゃかい)から「テロリストの味方(みかた)をしている」と批判(ひはん)を受(う)けただけでなく、イスラエルから軍事(ぐんじ)攻撃(こうげき)も受(う)けたからです。1970年(ねん)、ヨルダンは武力(ぶりょく)で国内(こくない)からPLOを追(お)い出(だ)しました。その後(あと)、PLOが拠点(きょてん)を移(うつ)したレバノンでも内戦(ないせん)となり、1982年(ねん)にはイスラエルも攻(せ)め込(こ)んできて、PLOはレバノンからも追(お)い出(だ)されて弱(よわ)ってしまいました。
第(だい)四次(よじ)中東(ちゅうとう)戦争(せんそう)後(ご)の1987年(ねん)からはパレスチナ民衆(みんしゅう)の抵抗(ていこう)運動(うんどう)であるインティファーダが始(はじ)まります。インティファーダは、イスラエルが占領(せんりょう)していたガザ地区(ちく)やヨルダン川(がわ)西岸(せいがん)地区(ちく)で起(お)きました。民衆(みんしゅう)は武器(ぶき)を持(も)っていないため、イスラエル軍(ぐん)の車両(しゃりょう)や兵士(へいし)に石(いし)を投(な)げるなどして抵抗(ていこう)したのです。

Q: イスラエルとパレスチナはどうしてオスロ合意(ごうい)で歩(あゆ)み寄(よ)れたの?

オスロ合意を結んで握手するイスラエルのラビン首相とパレスチナ解放機構のアラファト議長

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1993年(ねん)9月(がつ)、オスロ合意(ごうい)を結(むす)んで握手(あくしゅ)するイスラエルのラビン首相(しゅしょう)(中央(ちゅうおう)左(ひだり))とパレスチナ解放(かいほう)機構(きこう)のアラファト議長(ぎちょう)(中央(ちゅうおう)右(みぎ))。中央(ちゅうおう)奥(おく)は仲介(ちゅうかい)役(やく)のアメリカのクリントン大統領(だいとうりょう)

A: パレスチナ人(じん)の抵抗(ていこう)運動(うんどう)に不安(ふあん)を感(かん)じていたイスラエル、国際的(こくさいてき)に孤立(こりつ)しそうだったパレスチナ解放(かいほう)機構(きこう)(PLO)という、両方(りょうほう)に和平(わへい)を進(すす)めるメリットがあったからです。
 
 
1987年(ねん)におこったパレスチナ人(じん)の抵抗(ていこう)運動(うんどう)(インティファーダ)は、イスラエルが軍事力(ぐんじりょく)で押(お)さえつけても止(と)まらず、イスラエルは地域(ちいき)を占領(せんりょう)し続(つづ)けることに不安(ふあん)を感(かん)じ始(はじ)めます。
1991年(ねん)、中東(ちゅうとう)地域(ちいき)では湾岸(わんがん)戦争(せんそう)という大(おお)きな出来事(できごと)がありました。イラクのフセイン大統領(だいとうりょう)が隣国(りんこく)クウェートに攻(せ)め込(こ)んだのを、アメリカを中心(ちゅうしん)とする多国籍(たこくせき)軍(ぐん)が追(お)い返(かえ)した戦争(せんそう)です。アメリカは湾岸(わんがん)戦争(せんそう)をきっかけに、中東(ちゅうとう)地域(ちいき)を安定(あんてい)した地域(ちいき)にしたいと考(かんが)え、イスラエルとパレスチナに争(あらそ)いをやめるよう和平(わへい)会議(かいぎ)を呼(よ)びかけました。
イスラエルは、同盟(どうめい)国(こく)のアメリカから強(つよ)く迫(せま)られて、しぶしぶ応(おう)じました。
アラファトが率(ひき)いるPLOもこのころ苦(くる)しい状況(じょうきょう)にありました。湾岸(わんがん)戦争(せんそう)の時(とき)、PLOはパレスチナに味方(みかた)する発言(はつげん)をしたイラクのフセイン大統領(だいとうりょう)を支持(しじ)しました。そのためイラクと同(おな)じく、アラブ諸国(しょこく)を含(ふく)む多(おお)くの国(くに)を敵(てき)に回(まわ)してしまっていたのです。
同(おな)じ1991年(ねん)、それぞれの事情(じじょう)からイスラエルと、PLOが認(みと)めたパレスチナ人(じん)代表(だいひょう)団(だん)はスペイン・マドリードで開(ひら)かれた和平(わへい)会議(かいぎ)に出席(しゅっせき)しました。しかし、和平(わへい)には難問(なんもん)が山積(やまづ)みで、会議(かいぎ)はうまくいきませんでした。具体的(ぐたいてき)には、パレスチナ難民(なんみん)がもともといた土地(とち)に帰(かえ)る権利(けんり)をどうするか、パレスチナ国家(こっか)をつくる場合(ばあい)に国境(こっきょう)をどのように引(ひ)くか、キリスト教(きょう)とイスラム教(きょう)の両方(りょうほう)の聖地(せいち)とされるエルサレムの扱(あつか)いをどうするか、イスラエル人(じん)がパレスチナ人(じん)の土地(とち)に集団(しゅうだん)で移(うつ)り住(す)んだ入植(にゅうしょく)地(ち)をどうするか―といったことが問題(もんだい)でした。この問題(もんだい)は、まとめて「最終的(さいしゅうてき)地位(ちい)」と呼(よ)ばれています。
1992年(ねん)にイスラエルの首相(しゅしょう)が交代(こうたい)すると、和平(わへい)が進(すす)むきっかけとなりました。新(あら)たに就任(しゅうにん)したラビン首相(しゅしょう)は、インティファーダの時(とき)の国防(こくぼう)大臣(だいじん)で、占領(せんりょう)を続(つづ)ける難(むずか)しさをよく知(し)っていたからです。
1993年(ねん)、イスラエルとPLOは、最終的(さいしゅうてき)地位(ちい)についての解決(かいけつ)は先送(さきおく)りしながらも、和平(わへい)交渉(こうしょう)を進(すす)めるための歴史的(れきしてき)な合意(ごうい)を結(むす)びました。このあと5年(ねん)のあいだ、パレスチナ人(じん)に暫定的(ざんていてき)な自治(じち)を行(おこな)わせながら、交渉(こうしょう)を続(つづ)けることが約束(やくそく)されました。これが、交渉(こうしょう)が行(おこな)われたノルウェーの首都(しゅと)オスロにちなみ、オスロ合意(ごうい)と呼(よ)ばれます。

Q: オスロ合意(ごうい)はその後(あと)どうしてうまくいかなかったの?

A: いちばんの課題(かだい)であった「最終的(さいしゅうてき)地位(ちい)」について交渉(こうしょう)を先送(さきおく)りにしたからです。交渉(こうしょう)を進(すす)めていくほどに、お互(たが)いにゆずりあうことが求(もと)められ、それを不満(ふまん)に思(おも)う人々(ひとびと)がイスラエルとパレスチナの両方(りょうほう)にでてきて、和平(わへい)に反対(はんたい)するようになったのです。
 
 
「最終的(さいしゅうてき)地位(ちい)」は、パレスチナ難民(なんみん)がもといた土地(とち)に帰(かえ)る権利(けんり)をどうするか、パレスチナ国家(こっか)をつくる場合(ばあい)に国境(こっきょう)をどのように引(ひ)くか、双方(そうほう)の宗教(しゅうきょう)で聖地(せいち)とされるエルサレムの扱(あつか)いをどうするか、イスラエル人(じん)がパレスチナ人(じん)の土地(とち)に集団(しゅうだん)で移(うつ)り住(す)んだ入植(にゅうしょく)地(ち)をどうするかといった問題(もんだい)です。
イスラエルではラビン首相(しゅしょう)がパレスチナ側(がわ)に歩(あゆ)みよったことは、イスラエルの愛国(あいこく)主義者(しゅぎしゃ)にとって裏切(うらぎ)りとみなされました。1995年(ねん)、ラビン首相(しゅしょう)は愛国(あいこく)主義者(しゅぎしゃ)のイスラエル人(じん)青年(せいねん)に暗殺(あんさつ)されます。もともと難題(なんだい)を抱(かか)えていた和平(わへい)交渉(こうしょう)は、これによりほぼ止(と)まってしまいました。
一方(いっぽう)、パレスチナでは、イスラム組織(そしき)ハマスがイスラエルへの武装(ぶそう)闘争(とうそう)を続(つづ)け、新(あら)たな戦術(せんじゅつ)である「自爆(じばく)攻撃(こうげき)」を行(おこな)うようになりました。
2000年(ねん)にはパレスチナ人(じん)による暫定(ざんてい)自治(じち)が期限(きげん)を迎(むか)えてしまい、「最終的(さいしゅうてき)地位(ちい)」の交渉(こうしょう)はまとまりませんでした。その矢先(やさき)、イスラエルの有力(ゆうりょく)政治家(せいじか)がエルサレムにあるイスラム教(きょう)の聖地(せいち)を訪(おとず)れたことが「エルサレムはすべてイスラエルのものだ」というメッセージとなり、パレスチナ人(じん)は激(はげ)しく怒(いか)り、イスラエルへの抵抗(ていこう)運動(うんどう)(インティファーダ)が再(ふたた)び起(お)きました。

破壊されたガザ地区の写真

Anas-Mohammed/shutterstock.com

2023年(ねん)11月(がつ)、イスラエルの空爆(くうばく)で破壊(はかい)されたガザ地区(ちく)のまち

1987年(ねん)に始(はじ)まった抵抗(ていこう)を「第(だい)一次(いちじ)インティファーダ」、2000年(ねん)に始(はじ)まった抵抗(ていこう)を「第(だい)二次(にじ)インティファーダ」と呼(よ)ぶことがありますが、そのやり方(かた)は大(おお)きく違(ちが)います。第(だい)一次(いちじ)は武器(ぶき)らしい武器(ぶき)をもたない民衆(みんしゅう)の戦(たたか)いでしたが、第(だい)二次(にじ)はハマスなどの武装(ぶそう)組織(そしき)が中心(ちゅうしん)になりました。ハマスによる自爆(じばく)攻撃(こうげき)がイスラエル国内(こくない)で繰(く)り返(かえ)し行(おこ)なわれ、イスラエル軍(ぐん)は圧倒的(あっとうてき)な軍事力(ぐんじりょく)でパレスチナ自治区(じちく)へ何度(なんど)も攻(せ)め込(こ)みました。こうして、和平(わへい)交渉(こうしょう)は完全(かんぜん)に壊(こわ)れてしまいました。
オスロ合意(ごうい)による和平(わへい)は行(い)き詰(づ)まり、その後(あと)もアメリカを仲介(ちゅうかい)役(やく)として交渉(こうしょう)再開(さいかい)への努力(どりょく)は続(つづ)けられましたが、うまくいきませんでした。

Q: パレスチナの自治(じち)はどうなったの?

オスロ合意後のイスラエルとパレスチナの支配領域を示した地図
「オスロ合意(ごうい)」後(ご)のパレスチナ
出典(しゅってん):『そうだったのか!!パレスチナとイスラエル』(高橋和夫(たかはしかずお)著(ちょ))をもとに編集(へんしゅう)部(ぶ)で制作(せいさく)

A: ハマスが支配(しはい)するガザ地区(ちく)はイスラエルに封鎖(ふうさ)され、ファタハが支配(しはい)するヨルダン川(がわ)西岸(せいがん)地区(ちく)はユダヤ人(じん)の入植者(にゅうしょくしゃ)との衝突(しょうとつ)が続(つづ)き、それぞれ苦(くる)しい状況(じょうきょう)になっています。
 
 
1994年(ねん)、オスロ合意(ごうい)にもとづいてパレスチナ人(じん)による暫定(ざんてい)自治(じち)が始(はじ)まりました。これ以後(いご)、ヨルダン川(がわ)西岸(せいがん)の一部(いちぶ)とガザ地区(ちく)を合(あ)わせた地域(ちいき)を「パレスチナ自治区(じちく)」または「パレスチナ国(くに)」と呼(よ)びます。ただ、パレスチナ人(じん)にすべての地域(ちいき)を管理(かんり)する権限(けんげん)があるわけではありません。ヨルダン川(がわ)西岸(せいがん)は、パレスチナ人(じん)がすべて管理(かんり)できるA地区(ちく)、パレスチナ・イスラエルが共同(きょうどう)で管理(かんり)するB地区(ちく)、イスラエルの統治(とうち)が続(つづ)くC地区(ちく)に分(わ)かれています。
2006年(ねん)、パレスチナの議会(ぎかい)選挙(せんきょ)でイスラム組織(そしき)ハマスが勝利(しょうり)したことをきっかけに、ガザ地区(ちく)をハマス、ヨルダン川(がわ)西岸(せいがん)をファタハが統治(とうち)する形(かたち)でパレスチナは分裂(ぶんれつ)します。イスラエルはハマスの支配(しはい)するガザ地区(ちく)を封鎖(ふうさ)したため、ガザ地区(ちく)は経済(けいざい)のほとんど成(な)り立(た)たない状況(じょうきょう)になり、人々(ひとびと)の生活(せいかつ)は追(お)い詰(つ)められていきました。

ヨルダン川西岸にあるイスラエル人入植地の写真

Julius Bramanto/shutterstock.com

ヨルダン川(がわ)西岸(せいがん)地区(ちく)にあるイスラエル人(じん)の入植(にゅうしょく)地(ち)のようす

ヨルダン川(がわ)西岸(せいがん)地区(ちく)の状況(じょうきょう)も深刻(しんこく)です。その原因(げんいん)は、イスラエルがユダヤ人(じん)のためにつくった入植(にゅうしょく)地(ち)です。入植者(にゅうしょくしゃ)として移(うつ)り住(す)むユダヤ人(じん)は、身(み)を守(まも)るためという理由(りゆう)で武器(ぶき)を持(も)つことを認(みと)められています。その入植者(にゅうしょくしゃ)の一部(いちぶ)は「ヨルダン川(がわ)西岸(せいがん)もイスラエルのものだ」と信(しん)じており、パレスチナ人(じん)に危害(きがい)を加(くわ)えたり、家屋(かおく)を焼(や)いたりする事件(じけん)を起(お)こしています。こうした入植者(にゅうしょくしゃ)の暴力(ぼうりょく)は、イスラエル政府(せいふ)でさえ止(と)めることができていません。また、ファタハも治安(ちあん)を維持(いじ)する力(ちから)が弱(よわ)く、パレスチナの若者(わかもの)たちが独自(どくじ)の武装(ぶそう)組織(そしき)をつくるようになっています。ガザ地区(ちく)よりも人(ひと)口(くち)が多(おお)いヨルダン川(がわ)西岸(せいがん)で、ユダヤ人(じん)とパレスチナ人(じん)の衝突(しょうとつ)が激(はげ)しくなった場合(ばあい)、さらに大変(たいへん)な状況(じょうきょう)におちいる可能性(かのうせい)があります。

Q: アメリカの立場(たちば)は?

A: アメリカは、イスラエルを中東(ちゅうとう)地域(ちいき)の大事(だいじ)な同盟(どうめい)国(こく)として、ずっと味方(みかた)する立場(たちば)をとっています。
 
 
4度(ど)にわたる中東(ちゅうとう)戦争(せんそう)が起(お)きていたころ、アメリカはソビエト連邦(れんぽう)(ソ連(れん))と激(はげ)しく対立(たいりつ)していました(冷戦(れいせん))。1967年(ねん)の第(だい)三次(さんじ)中東(ちゅうとう)戦争(せんそう)でイスラエルが、ソ連(れん)と近(ちか)い関係(かんけい)にあったアラブ諸国(しょこく)に勝利(しょうり)したため、アメリカはイスラエルに同盟(どうめい)国(こく)としての期待(きたい)を強(つよ)めます。
当時(とうじ)のアメリカは、中東(ちゅうとう)にイランという同盟(どうめい)国(こく)を持(も)っていましたが、そのイランは1979年(ねん)に革命(かくめい)が起(お)きてアメリカと敵対(てきたい)するようになります。それ以来(いらい)、イスラエルは、アメリカにとって中東(ちゅうとう)でのほとんどただひとつの同盟(どうめい)国(こく)として特別(とくべつ)な関係(かんけい)を築(きず)いてきたのです。
現在(げんざい)でもアメリカはいつもイスラエルに味方(みかた)し続(つづ)けています。2023年(ねん)12月(がつ)8日(にち)に国連(こくれん)の安全(あんぜん)保障(ほしょう)理事会(りじかい)で、イスラエルに対(たい)してガザ地区(ちく)での即時(そくじ)停戦(ていせん)を求(もと)める決議(けつぎ)が行(おこな)われました。15カ国(こく)のうち、日本(にほん)やフランスなど13カ国(こく)が賛成(さんせい)しましたが、アメリカが拒否(きょひ)権(けん)を行使(こうし)したため否決(ひけつ)されました。
アメリカ政府(せいふ)に影響(えいきょう)を与(あた)えようと働(はたら)きかける団体(だんたい)をロビー団体(だんたい)といいますが、アメリカには「イスラエルと同盟(どうめい)することが、アメリカの国益(こくえき)につながる」と信(しん)じている人(ひと)たちが「イスラエル・ロビー」をつくっています。これには、ユダヤ人(じん)ではないアメリカ人(じん)が多(おお)く参加(さんか)しています。この「イスラエル・ロビー」の力(ちから)が強(つよ)いことも、アメリカがイスラエルとの関係(かんけい)をたもっている理由(りゆう)のひとつです。

Q: 日本(にほん)の立場(たちば)は?

A: 日本(にほん)は、イスラエル寄(よ)りの立場(たちば)を取(と)る欧米(おうべい)諸国(しょこく)とはちがう、独自(どくじ)路線(ろせん)の中東(ちゅうとう)外交(がいこう)を行(おこな)っています。
 
 
1973年(ねん)の第(だい)四次(よじ)中東(ちゅうとう)戦争(せんそう)のとき、石油(せきゆ)を産出(さんしゅつ)するアラブ諸国(しょこく)は「イスラエルに味方(みかた)する国(くに)には石油(せきゆ)の輸出(ゆしゅつ)を制限(せいげん)する」という石油(せきゆ)戦略(せんりゃく)を発動(はつどう)しました。これにより世界的(せかいてき)に石油(せきゆ)の価格(かかく)が値上(ねあ)がりする「石油(せきゆ)危機(きき)」(オイルショック)が起(お)き、日本(にほん)でもパレスチナ問題(もんだい)への関心(かんしん)が急速(きゅうそく)に高(たか)まりました。日本(にほん)は石油(せきゆ)が値上(ねあ)がりしたり輸入(ゆにゅう)できなくなったりすることはとても困(こま)るため、イスラエル寄(よ)りの立場(たちば)を取(と)る欧米(おうべい)諸国(しょこく)とはちがって、パレスチナやアラブ諸国(しょこく)に敵対(てきたい)しないような外交(がいこう)を行(おこな)うようになりました。パレスチナを代表(だいひょう)する組織(そしき)であるパレスチナ解放(かいほう)機構(きこう)(PLO)の事務所(じむしょ)が1977年(ねん)に東京(とうきょう)に開設(かいせつ)されたのも、その一例(いちれい)です。オスロ合意(ごうい)から、日本(にほん)はイスラエルとパレスチナの両方(りょうほう)が安全(あんぜん)な国(くに)を持(も)つ「2国家(こっか)解決(かいけつ)」を支持(しじ)し、イスラエルの入植(にゅうしょく)活動(かつどう)には反対(はんたい)の立場(たちば)を取(と)っています。

監修(かんしゅう):鈴木啓之(すずきひろゆき)さん

鈴木啓之さんの写真

1987年(ねん)生(う)まれ。東京大学(とうきょうだいがく)大学院(だいがくいん)総合(そうごう)文化(ぶんか)研究(けんきゅう)科(か)スルタン・カブース・グローバル中東(ちゅうとう)研究(けんきゅう)寄付講座(きふこうざ)特任(とくにん)准教授(じゅんきょうじゅ)。博士(はくし)(学術(がくじゅつ))。日本学術振興会(にほんがくじゅつしんこうかい)特別(とくべつ)研究(けんきゅう)員(いん)PD(日本(にほん)女子(じょし)大学(だいがく))、日本学術振興会(にほんがくじゅつしんこうかい)海外(かいがい)特別(とくべつ)研究(けんきゅう)員(いん)(ヘブライ大学(だいがく)ハリー・S・トルーマン平和(へいわ)研究所(けんきゅうじょ))を経(へ)て、2019年(ねん)9月(がつ)より現職(げんしょく)。著書(ちょしょ)に『蜂起(ほうき)〈インティファーダ〉:占領(せんりょう)下(か)のパレスチナ1967-1993』(東京大学出版会(とうきょうだいがくしゅっぱんかい)、2020年(ねん))、共編(きょうへん)著(ちょ)に『パレスチナを知(し)るための60章(しょう)』(明石(あかし)書店(しょてん)、2016年(ねん))。

文/三城俊一

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