16世紀、豊臣兄弟が作った日本最大の大仏が京都にありました

16世紀、豊臣兄弟が作った日本最大の大仏が京都にありました
朝日新聞社あさひしんぶんしゃが提供ていきょうした画像がぞうを使つかっています。

日本にっぽんの歴史れきしについてのニュースです。

豊臣とよとみ秀吉ひでよしは戦国せんごく時代じだいに天下てんか統一とういつ(国くにをまとめること)をしたとても有名ゆうめいな武将ぶしょうです。豊臣とよとみ秀吉ひでよしの弟おとうとの豊臣とよとみ秀長ひでながは、豊臣とよとみ秀吉ひでよしの天下てんか統一とういつを支ささえました。

16世紀せいき(1501年ねんから1600年ねん)、現在げんざいの京都府きょうとふ京都きょうと市し東山ひがしやま区くに豊臣とよとみ秀吉ひでよしが考かんがえて、弟おとうとの豊臣とよとみ秀長ひでながが中心ちゅうしんとなって建たてた大仏だいぶつがありました。奈良なら県けん奈良市ならしの東大寺とうだいじの大仏だいぶつ(約やく15メートル)より大おおきく、当時とうじ、日本にっぽんでいちばん大おおきな大仏だいぶつでした。

この大仏だいぶつが、実じつは10か月げつほどの短みじかい期間きかんで作つくっていたことがわかりました。京都女子大学きょうとじょしだいがく講師こうしの萩原はぎはら大輔だいすけさんが古ふるい文書ぶんしょを調しらべて明あきらかにしました。

「東山ひがしやま大仏だいぶつ」は松永まつなが久秀ひさひでの焼やき打うちで焼やけてなくなった奈良ならの東大寺とうだいじの大仏だいぶつより大おおきな大仏だいぶつとして考かんがえられました。1588年ねんの5月がつから京都きょうとの三さん十じゅう三さん間けん堂どうの北側きたがわで作つくりはじめられたとされます。1596年ねんの5月がつごろまでには大仏殿だいぶつでんも完成かんせいしていたようです。しかし、その年としに起おきた地震じしんで大仏だいぶつは壊こわれました。修理しゅうりされないまま取とり壊こわされてなくなりました。

萩原はぎはらさんが秀吉ひでよしの出だした手紙てがみなどを調しらべたところ、豊臣とよとみ秀長ひでながは、大仏殿だいぶつでんの基礎きそ工事こうじが終おわった1か月げつ後ごの1588年ねんの6月がつには奈良ならから仏師ぶっしを呼よび集あつめて京都きょうとに行いきました。さらに豊臣とよとみ秀吉ひでよしの命令めいれいで、九州きゅうしゅうから日本人にっぽんじんや中国ちゅうごく人じんの職人しょくにんを呼よび集あつめて大仏だいぶつを作つくらせていたことがわかりました。

さらに、1588年ねん9月がつ付づけとみられる豊臣とよとみ秀吉ひでよしの手紙てがみには、部下ぶかの武将ぶしょうたちに大仏だいぶつをつくるための木きを集あつめるように命令めいれいしていました。また、奈良ならの興福寺こうふくじの僧そうが1589年ねんの4月がつ7日なのかに書かいた日記にっきに「大仏だいぶつ見事みごと出来でき」と書かかれていました。萩原はぎはらさんは「仏師ぶっしを呼よび集あつめてから、10カ月げつほどで大仏だいぶつを完成かんせいさせていた可能かのう性せいが高たかい」と考かんがえています。

大仏だいぶつは青銅せいどうではなく、木きで作つくって、金箔きんぱくを貼はったものだったようです。

「製作せいさくに1年ねん足たらずというのは信しんじられないほどの短期間たんきかん。秀吉ひでよしと秀長ひでながが政権せいけんのステータスシンボルともいえるこの像ぞうの建立こんりゅう(建たてること)に、非常ひじょうなスピード感かんを持もって臨のぞんでいたことがわかる」と萩原はぎはらさんは話はなします。

金属きんぞくで作つくられていた東大寺とうだいじの大仏だいぶつは完成かんせいに3年ねんかかりました。現代げんだいの例れいではありますが、日本にっぽん最大さいだいの木造もくぞう座像ざぞうといわれる福岡ふくおか市しの東長寺とうちょうじの「福岡ふくおか大仏だいぶつ」(高たかさ10.8メートル)は完成かんせいまでに4年ねんかかっています。

豊臣とよとみ兄弟きょうだいの大仏だいぶつが木きで作つくられて金箔きんぱくを貼はった理由りゆうについて萩原はぎはらさんは「鋳造ちゅうぞうよりも大幅おおはばに工期こうきと経費けいひを短縮たんしゅくできたからだろう。表面ひょうめんさえ金箔きんぱくでコーティングすれば黄金おうごんの大仏だいぶつができあがる。映ばえ重視じゅうし、タイパ重視じゅうしの秀吉ひでよしらしい発想はっそうだ」と話はなしました。

朝日新聞あさひしんぶんの記事きじをやさしい日本語にほんごに言いい換かえた記事きじです。

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