幕末にさかんに行われた反幕府運動。「天皇を尊び,外国勢力を追いはらう」というのが言葉の意味。
〔尊王攘夷運動の高まり〕
江戸時代には,君臣の別を説く朱子学や,古代天皇制の復活を説く国学がさかんになるなかで,天皇(朝廷)を尊ぶ尊王論が高まった。また,幕末には外国船がさかんに来航し,その圧力が強まると,外国人の排斥をとなえる攘夷論が強くなった。開国後,社会が混乱すると,外国に対して弱腰の幕府と,外国勢力に対する反感が強まり,尊王論と攘夷論がむすびつき,下級武士を中心として尊王攘夷運動がおこった。
〔尊王攘夷から倒幕へ〕
幕府の大老井伊直弼による弾圧(安政の大獄)や,専制的態度をあらためた幕府の公武合体政策などは尊王攘夷運動を刺激して,運動はますますはげしくなった。尊王攘夷派の人々は外国人をおそい,長州藩(山口県)などは外国船を砲撃した。しかし,尊王攘夷運動の中心にあった長州藩や,薩摩藩(鹿児島県)は,四国艦隊下関砲撃事件や薩英戦争で外国勢力の実力を見せつけられて攘夷の不可能をさとると,開国・倒幕へと転換し,倒幕運動がくりひろげられるようになった。
コーチ
尊王攘夷運動ははじめ水戸藩(茨城県)が中心になったが,1862年ごろから,下級武士が藩の実権をにぎる長州藩へとうつっていった。