広島「平和への誓い」できるまで 12才の思いの結晶~体験聴ける最後の世代~

被爆体験を直接聴くことができる最後の世代として、使命があります―。2026年8月6日、原子爆弾の被害から81年。被爆地の広島市で開かれた平和記念式典で、こども代表が世界へ向けて「平和への誓い」を読み上げました。市内の小学6年生を代表して選ばれた20人が考え抜いた「伝えたいこと」。被爆そして戦後90年、100年へ向けて、12才になるこどもたちの思いの結晶ができるまでを紹介します。
平和記念式典と平和への誓い

1945年8月6日午前8時15分、広島市に人類史上で初めて原子爆弾(原爆)が投下されました。爆発した一瞬のうちに、多くの人が命を奪われました。そしてケガや放射線などの影響で、その年末までに、合わせておよそ14万人が亡くなりました。
平和記念式典は、原爆によって亡くなった人たちを忘れず、世界平和の実現を祈るために開かれています。被爆2年後の1947年の「平和祭」が始まりで、1950年は朝鮮戦争を受けて中止、1951年から現在の形で再開されました。2026年の式典には、121の国・地域の代表を含めて、世界中からおよそ5万人が参列しました。
こども代表による「平和への誓い」は被爆から50年となった1995年の式典から始まり、こどもたちの願いや決意を、世界へ発信しています。
「平和とは」自分の思いは? ~作文、意見発表~
平和への誓いのため、広島市教育委員会(市教委)は例年4~5月、市内の小学6年生の児童を対象に、平和をテーマとした作文を募集します。
1万人を超える応募、20人が意見発表
2026年は市内141の小学校から1万人以上が応募。これまでの平和学習での学びや、自分の体験を通じて感じたことを文章にしました。学校や市教委の審査によって、そのうちの20人が、意見発表会への参加者、そして平和への誓いの内容を考えるメンバーとして選ばれました。
20人は6月中旬、意見発表会で、ステージから作文の内容をスピーチしました。
いまの小学6年生は、ひいおばあさん・ひいおじいさんが被爆している世代。20人の中でも、ひいおばあさんの証言活動や、生前に残した短歌をきっかけにして平和について考えた児童がいました。また、ひいおばあさんが被爆のことを話したがらない様子に「思い出すのもつらい経験」と寄り添った意見や、足に残る被爆の傷跡を「知らないと見逃してしまう事実」として「知ること」の大切さに触れた発表がありました。
そのほか、児童の一人は、考え方の違う人たちに思いを伝えるために「言葉だけに限らない芸術などの表現が大切」と訴え、別の児童は「知る、考えるの先にあるのは行動」として平和を伝える英語のパンフレットをつくったエピソードを話しました。



このうち、お祭りのパレードで言葉が通じない外国人とも一体感を持てた経験などから、平和のために自分にできることは、相手の立場で「大切なもの」を考えることだと訴えた河野和希さん。両親が東日本大震災の被災者で、震災でも原爆でも「奪われてしまった日常」があり、亡くなった人たちが生きたかった未来を生きている自分は、毎日の小さな平和を未来へつないでいくと述べた柿崎由宇さん。この2人が平和記念式典で平和への誓いを読み上げる「こども代表」に決まりました。
事実と、仲間の声と、照らし合わせて ~資料館見学、検討会議~
意見発表会に参加した20人は6月下旬、平和への誓いで伝えたいことを考えます。その検討会議の前に、広島平和記念資料館を見学します。
被爆者の言葉・遺品、見え方が変わる

資料館では、20人それぞれが展示を見て、何があったのかという事実と、それに対する感想などをメモしていきました。
・薬包紙に書かれた遺書
・殺してくださいと口にするほどの苦しみ
・被爆直後を描き、炎や血の色で真っ赤の絵
・焼け焦げてボロボロの服、血がついたまま。「自分は体験してないのに、手がふるえる」
・ケロイド、焼けただれた肌。「原爆は人を殺すためだけのざんぎゃくな兵器」
・けがだらけでもいいからかえってきて。「見つからない。胸が苦しい」
ほとんどの児童にとって、資料館は何度か訪れたことのある場所で、展示を見るのも初めてではありません。それでも「市内の小学6年生の代表」として、平和への誓いで「何を伝えたいか」という意識を持って見た今回、これまで以上に心に響くものがありました。
「伝えたいこと」話し合い3時間
資料館を見学したあと、20人は5人ずつ4つのグループに分かれて、平和への誓いに盛り込んで「伝えたいこと」を話し合いました。
自分たちの意見発表や、資料館で感じたことなどを出発点に「どうしてそう思うのか」「もう少し具体的にすると」などと議論しながら、みんなで思いを突き詰めていきます。そして「伝えたいこと」を付箋に書き出して、同じテーマのものを囲ったり、関係が深いもの同士をつなげたりして整理します。
あるグループでは「事実」「できること」「伝え方」の大きく3つに分けた上で「自分たちの責任を果たすため、言葉だけじゃなくてさまざまな方法で伝えることが大切」などとまとめました。
児童はそれぞれに、いろいろな視点や考え方があることに気づき、話し合いは盛り上がって、予定された3時間の時間いっぱいまで続きました。
グループごとの成果は、最後に発表して伝え合いました。
検討会議でこどもたちがはっきりさせた「伝えたいこと」。これらの内容を基に、市教委が文章として整えたものが、平和への誓いになります。


伝えるための語りかけ方は? ~発表練習、リハーサル~

平和への誓いができあがると、こども代表の2人は7月下旬、その文章を読み上げる練習をします。地元放送局の元アナウンサーから、発声の仕方や、言葉の強弱のつけ方、間の取り方などの指導を受けます。
聞き取りやすくするためにゆっくり大きく話すことを基本として、その中でも「被爆者の言葉」や、自分たちの「決意」の部分は特に声をしっかり出すことなどのアドバイスがありました。
そして8月、平和記念式典の前日には、設営など準備が進む会場でリハーサルをします。
本番と同じように、自分の座席から、マイクのある演台まで歩いて、平和への誓いを読み上げました。席を立つタイミングや、歩くコース、誓いを読み上げるスピード感などを確認しました。
「使命」「責任」「決意」の発信 ~平和記念式典~
2026年、広島市内1万人以上の小学6年生を代表した20人の思いが込められ、参列者を前にして河野さんと柿崎さんが読み上げた「平和への誓い」は次の通りです。

もしも「大切なもの」が一瞬で消えてしまったら、どんな気持ちになるのでしょうか。
私たちが笑い合っているときにも、尊い命が失われている現状があります。
今もどこかで、当たり前の日常がうばわれています。
ぼろぼろになった制服。
黒く焦げたお弁当箱。
それは、当たり前の毎日を生きていた証です。
昭和20年(1945年)8月6日、午前8時15分。
たった一発の原子爆弾が、人々の暮らしを、人生を地獄に変えました。
髪は焼けちぢれ、全身の火ぶくれが破れ、火傷した皮膚が垂れ下がった人々。
「痛いよ。苦しいよ。」
「助けて、お母さん。」
「死にたくない。」
「助けてあげられなくてごめん。」
死んでしまうつらさ、生き続ける苦しみは、想像することさえ恐ろしいことです。
私たちには、被爆体験を直接聴くことができる最後の世代として、
当時の記憶を事実として受け止める使命があります。
目をそらさず、知ろうとすること。
悲しい現実でも向き合うこと。
そこには、「生きたかった人々」、「生き続けた人々」の思いがあります。
私たちには、広島のこどもとして、行動する責任があります。
相手の気持ちを想像し、意見の違いがあっても認め、受け止めること。
平和への思いを、自分なりの方法で表現すること。
一人一人の小さな行動が、平和への後押しとなります。
平和とは、誰かからあたえられるものでなく、世界中の人々で創り上げるものです。
こどもである私たちも、その一員として平和への一歩を踏み出します。
かけがえのない「大切なもの」を、確かな希望を、未来へ届けるために。

「平和を考えることが自分事に」

柿崎さんが、東京から広島へ引っ越してきたのは小学1年生のとき。最初の登校が、夏休みの登校日だった8月6日で、そこで初めて原爆のことを知りました。その日のうちに平和記念公園にある原爆死没者慰霊碑を訪れ、お母さんから、東日本大震災での被災のこと、原爆のこと、奪われたもの、忘れてはいけないことを聞きました。
それからちょうど5年。同じ慰霊碑の前で、広島のこども代表という大役をはたし「20人の意見が込められた平和への誓いを世界へ伝える使命をまっとうできた」と話しました。
そして、平和への誓いをテレビで聞いていた昨年までよりも、今回作文を書いたとき、こども代表に決まったときに「原爆や平和について考えることが自分事になっていった」と感じるといいます。作文の締めの言葉は、最初は「平和のバトンをつないでいきたいです」としていました。しかし、自分事として考えるうち、最終的に「平和のバトンをつないでいきます」という、より決意の込もった表現になりました。
「これからも平和につながる活動に積極的に関わっていきます」と柿崎さん。平和への誓いを考えた仲間とともに、11月に爆心地から近い小学校の平和資料館でガイド活動に挑戦するため、あらたな一歩を踏み出します。










